しかし、亡き父の名を汚さないために世間体を保つことが第一で、衝動のままに生きることはできない臆病さという、相反するふたつの価値観が彼女の中にあることを、花を放った後の後ろ姿だけで感じさせるのはさすがでした。
エルヴステード夫人のことは本心ではバカにしており、話もニヤニヤしながら聞いているのですが、笑顔なのに退屈さがにじんでいる表情は、ちょっとしたホラーといってもいいほど。
ヘッダはエルヴステード夫人とともに、新しい論文を執筆したレーヴボルクと再会。ヘッダと同じく破滅型で不安定な精神の持ち主のレーヴボルクは、彼女にあおられ止めていたはずの酒をあおり、酔って論文の原稿をなくしてしまいます。なくした原稿はイェルゲンが拾っていたのですが、ヘッダはその原稿を焼き捨て、打ちのめされるレーヴボルクへガブラー将軍の形見の銃を渡し自殺を促します。レーヴボルクの運命は、たしかにヘッダの手で変えることができましたが、それが遠因となり、ヘッダも自分の手で自分の命に終止符を打つことを選びます。
変わらない女性の苦悩を体現する
負の感情が生きる糧になっているようなヘッダは、なぜこんな行動をとるのかが観客にわかりづらく、受け取り方によって解釈が異なるため、どのようなキャラクターにもなりうる役です。今年2月にノルウェーで上演された公演では、時代背景は現代で、レーヴボルクが女性でヘッダとはレズビアン関係にあったという設定に翻案されていました
ただ、寺島しのぶが演じるヘッダの人物像は、明快であったように感じます。それは、周囲に「毒」をふりまく女性だということ。イェルゲンの鈍感さは生来のものでしょうが、それを助長させたのはおそらく、寺島ヘッダ。ただその強固な鈍感さ(と、エルヴステード夫人のまっとうさ)によって、自分は他人の運命を変える特別な存在でありたかったのに、逆に変えられてしまったやりきれなさが、ヘッダの自死へと自然につながっているように受け止めることができました。
終盤、ヘッダは身ごもっていることが示唆されており、結婚と妊娠が人生にもたらす影響と苦悩の大きさが、戯曲中いちばん、観客の共感を呼ぶポイントです。でも寺島ヘッダはホラーでありながらも、そこまで大きなテーマではなく、どこかもっと現代日本人と地続きでした。まるで「自分はオンリーワンの花!」「ひととは違う特別な何者かでありたい」との叫びであふれるSNSの投稿のような卑近さ。
19世紀と21世紀をつなげてしまう寺島の個性、恐るべし。しかし本当に恐ろしいのは、経済はどれだけ発展しても女性の悩みは19世紀から変わっていない、という事実かもしれません。
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