「もう3年前でしょ。いつまでもあいつに引きずられてるってわけにはいかないでしょ」(『四月の永い夢』より)
ひとは大切な誰かを失うと時間が止まってしまう。陳腐な決まり文句ではあるけれど、彼/彼女を共に悼んだ人達が何とか喪失を受け入れ、生き残ったもののつとめとして前に歩き出す一方で、どうしてもその喪失を受け止めきれないひとにとって、自分だけが世界から取り残されて時が止まってしまったという感覚は、時に比喩以上の重みと実感を持つ。
映画監督中川龍太郎が初期作品から一貫して描き続けてきたのは、こうした終わらない弔いの中にいる人たちだ。
弱冠28歳の中川は、『愛の小さな歴史』(2014)、『走れ、絶望に追いつかれない速さで』(2015) で東京国際映画祭史上初の2年連続入賞を果たし、今月12日より公開された『四月の永い夢』でもすでに国際的な映画賞を複数受賞している。もはや新進気鋭と呼ぶには相応しくない稀代の映画監督だ。
いくつかのインタビューにおいて大学時代の友人を自死で亡くした経験を明かす中川は、『歴史』における親友・家族の喪失、『走れ』における親友の自死、そして『四月』における恋人の死と、喪失・追悼を中心的なテーマとして描き続けてきた。
メランコリーと弔われない愛
後に詳しく述べるが、中川監督作品を特徴づけるのは単に弔いというよりもむしろ冒頭で触れたような意味での失敗し続ける、終わらない弔いだ。
精神分析の創始者ジークムント・フロイトは、こうした「喪失の意味づけが終わらない弔い」を「喪」に対する「メランコリー」と呼んだ。メランコリーはフロイトの理論においては根本的には乗り越えられるべき病であったけれど、フェミニスト・クィア理論家のジュディス・バトラーはむしろこのメランコリーを理論の中心に据えて、弔われない・弔われきらない愛の喪失は、私たちが主体になり、社会を作り、そして誰かを愛するときに忘却された影として常に寄り添い続けるのではないかと主張し続けた(バトラーの理論におけるメランコリーの重要性については、例えば2011年に亡くなった竹村和子の名著『愛について』などに詳しい)。
もちろんクィア理論におけるメランコリーの重要性は、一つには80~90年代にアメリカを襲ったAIDS危機の結果でもある。60万人以上の死者を出したHIVウィルスは必ずしも性感染を中心に伝播したわけではないが、メディアにおいて「ゲイの病」として報道されたことでゲイ・バッシングの過熱を招き、多くの「悼まれない死」を引き起こした。けれど思い返してみればその遥か以前から「あえてその名をかたらぬ愛」こと同性愛はまるで死によってのみ許されるように死の影に取りつかれてきた。オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』(1890)やケイト・ショパン『目覚め』(1899)を引くまでもなく、同性愛を描く作品が死によって幕を閉じる例は枚挙にいとまがない。
こうしたメランコリーは時に未成熟な「青臭さ」に、時に自己愛的に――言ってみればかわいそうな自分に酔っているようにすら見える。ある意味ではそうなのだろう。だって失ったあの人は私の切り離せない一部だったのだから。ホモフォビアの歴史の中で同性愛がしばしばナルシシズムや未成熟な子供っぽさと結び付けられてきたのは、フェミニズム・クィア批評家Heather LoveがFeeling Backward (2007、未訳) で示唆したように、クィアな愛が抑圧の帰結としての死に覆われて続けてきたからなのかもしれない。
中川の描く愛は狭義でのクィア(同性愛的)なものでは決してない。
けれどバトラーが『アンティゴネーの主張』で書いたように、死者を「正統に」弔うことができない人、愛の喪失を「適切に」意味づけられない人は、私たちの社会においては不適当なものとされ、抑圧・排除の対象になる。そして少なくともこの広い意味において、中川の描く弔われきらない愛はクィア(非正統)なものに他ならない。
「喪失と再生の物語」?
もちろん映画は物語の要請により、喪失の底にいる彼/彼女たちが何とかその喪失に意味を見出し、一つの区切りをつけ、もう一度歩き出す可能性を示唆する。
けれどこれを「喪失と再生の物語」とまとめるのに戸惑いを覚えるのは、例えば『走れ』においても『四月』においても、喪失を引き受ける適切な「喪」の可能性は物語の最後の最後にようやく示唆されるにとどまるからだ。それまでの99%の時間、私たちは漣(『走れ』)や初海(『四月』)と共に、意味づけを拒み彼女らを縛り続ける死と共にある。そして何よりも、『走れ』においても『四月』においても、死の意味づけ――なぜ亡くなったのか、何が起こったのか、私にとってあの人は誰だったのか――は、最後までなされることはない。
『走れ、絶望に追いつかれない速さで』を例にとろう。
自死した親友・薫が最後に残した中学時代の同級生の絵を片手に、彼の故郷を訪ねる。そんな一種のロード・ムービーである本作では、主人公・漣が探求する薫の死の真相――何故命を絶ったのか、何を思って死んだのか――は物語の最後まで謎であり続ける(薫が亡くなる前にもう一枚残した、夕陽の海へ向かうパラグライダーの絵が、彼は絶望からではなく自由を求めて身を投げたのではないかという微かな可能性を示唆するものの)。
「自分に関係なく死なれたならその方がつらい」と吐露する漣にとって、誰よりも理解しているはずだった薫が自分を置いて行ってしまったという感覚は、薫の元恋人・理沙子ら同級生達が大企業に就職して「大人」になっていく中で、自分は(おそらくは就活に失敗して)工場勤務であり、学生時代のような身なりのままであるという状況と重ね合わされる。薫に置いて行かれることはそのまま、世界に置いて行かれることなのだ。
漣の再生は、薫の死を引き受けることよりもむしろ、(主に男性の)他者との繋がりを通じてなされる。これを最も象徴するのは、終盤、薫が命を絶った崖で出会った見知らぬ壮年男性にご飯をご馳走になり、溢れる涙を拭おうともせずにひたすらに掻き込む長回しのシーンだ。
生のままの生命力を描く極めて感動的なこのシーンに続き、職場の先輩や行きつけの食堂で働く女性とのやり取りを通じて描き出される漣の再生は、けれど必ずしも薫を弔い終えるということを意味するわけではない。むしろ、薫の遺志を引き受けるかのように自らもパラグライダーを始め、彼が見た光景を見ようとする漣は、薫を弔うのではなく彼と共にあり続けることを引き受けているかのように見える。誰かを弔うこととは、最終的には私とあの人は別の人だと引き受けることであるのならば。
永い夢から醒めて
(以下『四月の永い夢』のあらすじに少しだけ触れます)
中学の教師を辞めて蕎麦屋でアルバイトをしている初海のもとに、三年前に亡くなった恋人が書き残した手紙が届く。古い勉強机に『めぞん一刻』や教師時代の本が転がる部屋が象徴するように、初海もまた喪失によって時間の流れに取り残された一人だ。長い夢に留まる彼女は、勤務先の蕎麦屋の閉店、ジャズシンガーとなったかつての教え子・楓との再会、そして手拭い工場で働く青年・藤太郎による求愛によってゆすり起こされようとしている。やがて彼女は恋人の最後の手紙の送り主である彼の家族を訪ねることを決意する。それは一つの小さな秘密を告白するためでもあった――。
『四月の永い夢』において物語の一つの中心である蕎麦屋のアルバイト・初海とその客・藤太郎の関係は、ちょうど『走れ』における漣と食堂の女性の関係を反転させたようなものになっている。そして『走れ』が主に男同士の絆を通じて喪失から再生に至る物語であるのに対して、『四月』において初海は藤太郎との関係だけでなく傷を負った女同士の絆を通じて再生へ歩んでいく。同棲中の恋人にDVを受ける楓や、同じく蕎麦屋で働くバツイチの忍、そして亡き恋人の母・沓子と世代の違いを越えた繋がりを築くことを通じて、初海は自身の傷と向き合い始めていく。
初海はよくものをもらう。そもそも亡くなった恋人からの、つまり返すことの出来ない手紙を巡るこの作品で、初海は藤太郎からは彼がデザインした手拭いを、楓からは彼女の歌うジャズCDを、忍からは高額の退職金を半ば押しつけられ、そのたびに返礼を申し出るも断られ、返せない贈り物を受け取り続ける。こうした贈り物によって描き出されるのは、やはり動き続ける世界と止まったままの彼女の時間の対比に他ならないだろう。
けれど初海は先ほど述べた女たちの繋がりを機に歩き始める――文字通りに。本作でも特に印象に残るのは、初海が歩く姿を描く二つの長回しのシーンだ。その一つは、ビルの屋上で花火を肴にBBQパーティをする中で一人柵に持たれる藤太郎のもとへ歩み寄る場面。そしてもう一つは、藤太郎に案内された手拭い工場から帰宅する初海が、赤い靴の楽曲『書を持ち僕は旅に出る』を背景に夜の町を跳ねるように歩く場面だ。楓や忍のいるテーブルから藤太郎の立つ柵まで歩く前者の場面では、実際の屋上のスペースからは明らかに長すぎる距離を、背筋を伸ばし歩く初海の凛とした姿勢が強調される。そしてイヤホンから流れるポップな音楽に包まれてありふれた夜の通りを楽しげに歩く後者の場面は、音楽が止まった瞬間に訪れる寂寥を色濃く強調し、外部を遮断した自分だけの夢から静寂を通して圧倒的な存在感を持って迫る世界に否応なく向き直る初海の姿を鮮烈に描き出す。
かくして初海は過去に向き合うべく、そして小さな、しかし物語の意味を決定的に変えてしまう一つの秘密を告白するために、亡き恋人の家族を訪問することを決意する。先ほど述べたように、『四月』においても死は最終的に謎であり続ける。死の一時間前にパスタの写真をSNSにアップした恋人がなぜ亡くなったのか、彼の死を機に初海が教師を退職したのはなぜか、つまり彼の死の意味はなんだったのか、という問いに答えが出されることはない。けれど私たちが知るのは、『走れ』における漣の旅が友の死の意味を求め、やがて彼と同じ光景を見るに至るものであったのに対して、初海の旅はむしろかつての恋人に対し本当の意味で別れを告げるためのものだったということだ。冒頭のフロイトの語彙を借りれば、容易に「喪」に至ることのできない、意味づけを拒むメランコリーに寄り添いながら、それでもなお歩き始める初海の姿を鮮やかに描く『四月の永い夢』は、誰かを弔うとはどういうことかという困難な問いについてのひとつの誠実な答えを観る者に伝えてくれる。
『四月の永い夢』は5月12日から全国の劇場で公開中だ。
(Lisbon22)