ただ座って本を読んでるわけじゃない
今回の連載では、「フェミニスト批評って何をやってるの?」ということについて書いてみたいと思います。宣伝で恐縮ですが、私は3月末に、白水社より『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち――近世の観劇と読書』という初めての単著を出しました。これはフェミニスト批評を用いたシェイクスピアの研究書です。16世紀末にシェイクスピアが活動し始めた頃から、初めて近代的なシェイクスピア祭が行われた1769年までの間に、女性の読者や観客がどうシェイクスピアを受容し、その普及に貢献したかを探る内容です。
本の写真を見て頂ければわかるように、帯に「追っかけから始まる、シェイクスピア女性の歴史」と書かれていますが(このチャラいコピーは私が考えました)、シェイクスピアの女性ファンに関する研究だと思って頂ければいいかと思います。2015年に私がベネディクト・カンバーバッチの『ハムレット』をバービカン・センターに見に行った話から始まり、18世紀の女性たちがシェイクスピアの登場人物のコスプレをして集った1769年のシェイクスピア・ジュビリー祭の話で終わります(コスプレとか聖地巡礼というのは、意外と昔からあるものなのです)。
初めて単著を出し、大学や一般向け講座などでシェイクスピアなどを教えていて最近よく思うのが、大学などにいる学者がどんな「英文学」をやっているのか、「フェミニスト批評」というのはどういうことをしているのかについて、皆さんあまりはっきりしたイメージがなく、またけっこう古い時代のイメージで止まっている方も多いなということです。
英文学の先生というと、研究室でじーっと座って本を読んでいるというイメージを持たれる方も多いようです……が、もちろんきちんとテクストを読むのは大事であるものの、私のような舞台芸術史系の研究者は研究のため劇場とかアーカイヴとかに出かけることが多く、かなり足を使う仕事です。私の研究分野は受容史と呼ばれる分野のもので、文学の中ではかなり歴史学寄りです。文書館とか博物館、図書館、劇場の付属資料館など、史料がおさめてあるところに通って、昔の人の手稿とか、刊本にある書き込みとか、チラシとか、20世紀以降のものであれば上演の映像とか、そういったあまり人目に触れることのないような記録を掘り出します。たまに歴史家と間違えられます。
この記事では、私が本を出すまでにどんな「英文学のフェミニスト批評」の研究をしていたのか、体験に基づいて簡単にお話したいと思います。ただし、私がやっている研究は英文学でもフェミニスト批評でもあまり主流ではないものなので、これをどの学者もやっていると思われるとちょっと困るのですが、参考にはなるかと思います。
フェミニスト批評って?
フェミニスト批評というと、テクストを丹念に読んで、作品の中に描かれた女性像に着目するとか、女性作家の作品に光を当てるとか、そうした批評を想像される方が多いかと思います。もちろん、そういう批評は今でもたくさん行われています。私も自分の本では、シェイクスピアの代表作である『ハムレット』のオフィーリアや『アントニーとクレオパトラ』のクレオパトラなどのキャラクターを分析したり、17世紀の有名な女性哲学者でSF作家・批評家でもあるマーガレット・キャヴェンディシュの作品を扱ったりしています。
『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』の半分くらいは、18世紀半ばまでにシェイクスピアの作品を本で読んだ女性に関する調査からなっています。本の分類や歴史などを研究する学問を書誌学と呼ぶのですが、これとフェミニスト批評がクロスしたところに「フェミニスト書誌学」という超マイナー研究分野があり、それにあたるものです。ちなみに私は、アメリカの学会でフェミニスト書誌学のセッションに応募して発表するまで、自分の研究がそういう名前だということすら認識していませんでした。つまりそれくらいニッチな分野です。
書誌学にもいろいろなアプローチがありますが、私が主にやったのは、本に貼ってある蔵書票とか書き残されたサインなど、使用者を示す痕跡に着目する調査です。本を入手すると、表紙や遊び紙などに自分の名前を書いたり、蔵書印を押したり、蔵書票(図書館のものは見かけたことのある方も多いと思いますが、個人でもこれを作る人がいます)と呼ばれるラベルを貼ったりする人がいます。よく本の研究をしている学者が言うことですが、読むというのは痕跡が残らないので、研究が非常にやりにくい分野です。さらに、(今でもそういう人はけっこういるのですが)17世紀には読むのはできても書くのはできないという人がかなりいたのではという説があり、本を読んでもほとんど痕跡を残せない人もいたはずです。蔵書票は、そうした読むというはかない行為の痕跡をあぶり出してくれる、便利な証拠です。古い本だと、一冊の本に何人もの名前が書かれていたり、蔵書票が何枚もあったりします。この中に女性名があったら、その女性がいったいどういう人でいつ頃どこに住んでいたのか、他の史料と付き合わせて身元を突き止めます。言い方はちょっと悪いですが、執拗に昔の人の個人情報を探る、時空探偵みたいな研究です。
場合によっては、一冊の本が親戚や友人など複数の女性の間でプレゼントとして送られたり、家宝として大事に保存されていたりすることがあり、当時の読書文化について貴重な情報がわかります。さらには、ロンドンで上演されていた戯曲が書籍化されることにより、コーンウォールとかアイルランド、さらには世界各地に広がっていく様子がわかったりもします。
私はこの本を書き上げるまでに、18世紀半ばまでに刊行された本を800冊ほど見ました。その中には、1623年に刊行されたファースト・フォリオというシェイクスピア作品集の初版が30冊以上ありました。これは今市場に出ると、状態にもよりますが1冊で5億円の値がついてもおかしくありません。ざっくりした計算で150億円ほどの人類の財宝を触って本を書いたことになりますが、ふつうのフェミニスト批評では別に150億円を手にしたりはしないので、かなり特殊な研究と考えていいかと思います。
本は持ち歩けるものですから、日本やアメリカにもシェイクスピアの古刊本があります。いろいろなところに証拠が散らばっているので、旅に出ることもあります。ニュージーランドの図書館で偶然、18世紀の女性が使った本を見つけた時は驚きましたが、その本には、ばあちゃんの大事な本を図書館に寄付したのに管理が悪いという趣旨の苦情を子孫が述べた手紙の写しがついていました(拙著p. 175)。この本は、19世紀に元の持ち主の孫娘が祖父母の記念品としてわざわざイギリスからニュージーランドに持ち込んだものだとわかりました。映画『ピアノ・レッスン』みたいで、ちょっとロマンティックです。
自分の歴史を掘り出す
こんなふうに昔の人々の私生活をほじくり回して何が楽しいのか、というと、それはずばり、自分自身の歴史のアクセスできることです。私はシェイクスピアを研究している女性ですが、マーガレット・キャヴェンディシュみたいな傑出した哲学者とかではありません。そこらで芝居を見て、本を読むただのファンです。でも、実はこういうただのファンが根強く文化を支えているのです。
本にも書いたように、「シェイクスピアが今でも世界中で上演され、読まれ、映画やテレビドラマになっているのは、多くの無名の人々が劇場でシェイクスピアを楽しんできたから」(p. 8)です。私が調査で掘り出した、自分の本に名前を書いたり、ちょっとした手紙を残したりした無名の女性たちは、私たちただのファンにとても近い存在です。そのへんのファンの歴史を書くことでコンテンツがどうやって普及したかわかるかもしれないし、ひょっとしたら現在のマーケティングを考えるヒントにだってなるかもしれません。
傑出した男性の学者や批評家がどのようにシェイクスピアを受容したか、ということについては既にいろいろな歴史が書かれています。でも、女性は学問や批評の歴史の中でとても軽視されてきました。たとえばマーガレット・キャヴェンディシュは大変才能がありましたが、ちょっと前衛的すぎたのと、女性だったこともあり、生前はお騒がせセレブみたいな扱いを受けていたのです。とくに才能のないそこらの女性がとりあげられる機会は、ほとんどありませんでした。過去の女性たちがどうシェイクスピアを楽しんでいたのかについては、いくつか先行研究はあったのですが、それだけでは物足りず、私は自分たちについての歴史を読みたいと思いました。そういうものがあまりなかったので、自分のために自分の歴史を書こうと思って研究を始めたのです。
私にとってフェミニスト批評とは、自分、あるいは自分たちがどこからやって来たのかを知るプロセスのひとつです。もちろん、私がやっている研究はちょっと変わり種ですし、学者の数だけそれぞれ研究の動機があります。私はマーガレット・キャヴェンディシュのようにはなれないかもしれませんが、少しだけでも女性の歴史に貢献したいと思って、毎日フェミニスト批評を研究しています。