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RADWIMPS「HINOMARU」に見る音楽と政治とセクシュアリティのゆらぎ

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トランス男子のフェミな日常/遠藤まめた

 ここのところRADWIMPSの「HINOMARU」という曲が話題になっている。これまで軽やかに自分たちの言葉で歌詞をつむいでいた彼らが、突然「さぁいざゆかん 日出づる国の 御名の下に」などと歌い出したのでびっくりした人たちが多かったし、私自身も結構ビビった。個人的には、今年の春にモデルからの「#metoo」告発を受けてお気に入りだったアラーキーの写真集をどうしようか迷っていたところにRADWIMPSの炎上が重なって、やっぱり政治と無関係なアートなんて存在しないんだよなと突きつけられたような気分だ。

 ありふれたラブソングばかり世の中に溢れてもつまらないし、音楽はあらゆることを題材にして欲しい。そう思っているから、愛国心をテーマにした曲があってもいいと自分は思う。ありふれたラブソングだって「恋愛はかくあるべし」「恋愛をしない人生は勿体無い」「異性愛が当たり前」と言ったある種の価値観をベースにしているから、中立なんてものは存在しないのだ。

 その上で、改めて考えたのはファン心理の複雑さについてだ。ハードコアなファンにとって、ひとつの楽曲がきっかけで自分たちの好きなアーティストが炎上のターゲットにされてしまうことは、かなりムカつくことではないかと思う。RADWIMPSについては、私は失恋したときに「me me she」を聴いてメソメソする程度の距離感だけれど、おそらく自分が中学三年生で、昔のパンプオブチキンが何かの拍子に叩かれていたら「藤くん(BUMP OF CHICKENのボーカル)のことを何も知らないくせに」と絶対思うだろう。

 今回の炎上がきっかけで、ある種の被害者意識を持って、日の丸を無邪気に掲げられない人たちのことをネガティブなイメージで捉えるファンも新しく生まれたことだろう。好きな人の作品が批判されると、そのアーティストを好きになった自分の想いが間違っていたと言われたような気持ちになって、冷静に物事が考えにくくなる。ファン心理というのは、そういうところがあるように思う。

 一方で、だからこそアーティストが発信することの影響は大きいし、アーティストが迷ったり、ゆらいだりする姿を見せることも大切だなと思う。思い返せば、私がはじめてゲイ男性のインタビューを読んだのは、岡村靖幸の『純愛カウンセリング』(ぴあ)だった。私は岡村ちゃんの大ファンである。彼はすぐに結婚したがるし、ハネムーンベイビーを産んで欲しいと懇願するし、目指すところはターザンボーイなので、そういうところには私は正直戸惑っている。でも、岡村ちゃんはそんな自身の男性観のせいなのか、コミュ障かつ非モテで、本当は一人ぼっちでファミコンをしていることもポロリとこぼす。彼がインタビュー本の対談相手に新宿二丁目のゲイバーのマスターや、スワッピングしているカップルを選んだのは、セクシュアリティに関する興味やゆらぎに対して彼がオープンな姿勢を示しているからで、そういう意味では彼が少子化を憂慮するピンボケな歌とかを歌っていても、ファンとしてはそれほどシリアスには捉えないで済んでいるのである。

 愛国心の表現の仕方は難しく、やりようによっては他の人たちを簡単に追い詰めることは過去の歴史が証明済みだ。でも、自分のルーツを探り、誇ろうとする音楽があってもいいとは私は思う。なので、ここはRADWIMPSは「純愛カウンセリング」ならぬ「愛国アドベンチャー」みたいな対談集をいろんな視点の人たちと行い、もう少し議論を掘り下げたら良いのではないかと思う。無思想・中立を自称するアーティストが増えるよりは、自分の歌の社会的影響について自覚しているアーティストが増えたほうがクールだと思うのだけれど、日本の音楽シーンにそれを求めるのは酷なのだろうか。

遠藤まめた

1987年生まれ、横浜育ち。トランスジェンダー当事者としての自らの体験をもとに10代後半よりLGBT(セクシュアルマイノリィ)をテーマに啓発活動をはじめる。主にLGBTの若者支援や自殺予防に関わる。著書に「先生と親のためのLGBTガイド 〜もしあなたがカミングアウトされたなら」(合同出版)ほか。

twitter:@mameta227

サイト:バラバラに、ともに。遠藤まめたのホームページ

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