ブルーカラーの女性の努力を称えるあまり…『エリン・ブロコビッチ』
スティーヴン・ソダーバーグ監督『エリン・ブロコビッチ』(2000)では、実在の法律事務所調査員で環境保護活動家であるエリン・ブロコビッチ役をジュリア・ロバーツが演じています。法律を学んだこともない貧しいシングルマザーのエリンが、水質汚染の被害を受けた人々のため大企業に戦いを挑み、莫大な和解金を勝ち取るまでをユーモアをまじえて描く作品です。
この作品に出てくるエリンは完璧とはほど遠く、怒るとひどく口汚いし、強引な性格ですが、欠点も含めて人間的な厚みがあります。ミスコンで優勝したこともある美人ですが、離婚して子供を3人抱えて失業中、交通事故にまで遭うというドン底の状態から這い上がります。『ワーキング・ガール』のテスが企業文化を肯定し、その中で出世しようとしていたのとは違い、エリンは社会正義のため企業という大きな権力と戦います。一方で現実的なところもあり、仕事に見合う給与はきちんと要求するし、忙しくなると子供と一緒に過ごせないと不満たらたらで、そういうところも魅力があります。自分らしく正しいことをしようとするエリンはまさにフェミニスト的なヒロインです。
そんな『エリン・ブロコビッチ』ですが、一箇所ミョーに引っかかるところがあります。それは、法律の世界で働くエリン以外の女性たちが、皆なんとなく不寛容だということです。エリンが働く法律事務所では、女性同僚は皆、最初はエリンをうさんくさく思っています。エリンの露出度の高い派手な服装が他の女性の反感を買い、上司のエドがそれについて警告する場面もあります。女性同僚たちとの関係はエリンが実力を発揮し始めると改善するのですが、それにしても女性が美人の新入社員に反感を抱いていることを強調する描写は必要なのかな……という気がします。
もっと明確に違和感があるのは、後から調査に加わるエリート女性弁護士、テレサです。テレサはエリンを見くびっているところがあり、自分で調査に行きますが、お堅すぎてクライアントに嫌われてしまいます。全体的にテレサはエリートなのに失敗ばかりしており、エリンにバカにされています。
『エリン・ブロコビッチ』では、ブルーカラーの女性エリンが受ける差別とそれに対する抵抗を明確に描き出すため、エリート女性の不寛容さ、無能さを強調しすぎているきらいがあります。『ワーキング・ガール』ほど露骨ではありませんが、この作品でもヒロインを邪魔する権力を象徴するものが男性ではなく女性エリートになってしまっているのです。『ワーキング・ガール』のテスは終盤でキャサリンのことをやせぎすだとバカにしますが、この映画のエリンも初対面のテレサとケンカになった時、靴がダサいと罵ります。労働者階級のタフで健気でセクシーな女性はヒロインとして称えられる一方、高学歴で自信と社会的地位のある女性はブスとして貶められるのです。
女性同士の連帯に向けて
『ワーキング・ガール』や『エリン・ブロコビッチ』の問題は、職場における立場の違う女同士の連帯が描かれないということです。フェミニズムは白人や中流階級の女性に着目しがちで、非白人や労働者階級の女性を軽視しがちだということはよく言われていますし、これはフェミニズムが解決すべき大きな課題です。しかしながら、エリート女性は労働者階級の女性の敵であり、不細工で打ち負かされるべきなのだ、というような描き方をとることは、「女の敵は女」というモデルに女性たちの戦いを矮小化し、本来であれば根本的な批判の対象となるべき男性中心的な社会を免責していると言えます。
しかしながら、こうしたステレオタイプなエリート女性嫌いを避けて、職場における女同士の連帯を描こうとした映画もあります。
1980年の『9時から5時まで』は、皆から上司の愛人だと思われてバカにされていた金髪の美人秘書ドラリー(ドリー・パートン)、離婚したばかりの新人ジュディ(ジェーン・フォンダ)、ベテランのヴァイオレット(リリー・トムリン)という立場の違う3人が協力してセクハラ上司をやっつける痛快オフィスコメディです。2001年の『キューティ・ブロンド』では、ピンクの派手な服装でみんなからバカにされていたブロンド美女の法学生エル(リース・ウィザースプーン)が、最初はイヤな女に見えた優等生でインターン仲間のヴィヴィアン(セルマ・ブレア)と尊敬しあうようになり、一緒に裁判で戦います。
イヤな女性上司が出てくる時も、だんだん背景が丁寧に描かれるようになってきています。2006年の『プラダを着た悪魔』はベストセラー小説の映画化ですが、メリル・ストリープの演技のおかげもあって原作よりもヒロインの鬼上司ミランダがはるかに深みを増し、なぜ彼女がこんな怖いボスになったのかなんとなく想像できる複雑な人物描写が行われていました。実話をもとにした2016年の『ドリーム』ではアフリカ系アメリカ人女性であるNASAの職員ドロシー(オクタヴィア・スペンサー)が、最初は白人女性の中間管理職ヴィヴィアン(キアステン・ダンスト)から差別を受けていたものの、最終的にはヴィヴィアンが同僚としてドロシーに敬意を払い始める描写があります。
このようにエリート女性の背景や改心を丁寧に描くことで、女性間の分断、非白人や労働者階級の女性の仕事をうまく描けるはずだと思います。高学歴、高収入で自信に満ちた女性を不愉快なブスとして悪魔化するのでは、結局男性中心的なステレオタイプに追随するだけになってしまいます。
映画批評家のクリスティ・パチコは『ファントム・スレッド』の批評で、『ワーキング・ガール』や『プラダを着た悪魔』を例にあげ、パワフルで権力を乱用する男性キャラクターは複雑な魅力を持ったアンチヒーローとして提示されやすいのに、女性の場合は完全な悪役になりがちであることを指摘しています。しかしながら最近は、『女神の見えざる手』(2016)や『モリーズ・ゲーム』(2017)のジェシカ・チャステインのように、権力を持った複雑でアンチヒロイン的な役どころを得意とする女優もいます。女同士の連帯を描くにせよ、パワーを持ったエリート女性をヒロインに据えるにせよ、仕事と女性というテーマについては、さらなる奥行きと多様性、複雑な魅力を持った映画がどんどん生まれるようであってほしいと思います。
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