現代短歌を代表する歌人である穂村弘さんと枡野浩一さんが、<言葉は現実に従属すべきか、すべきでないか>について、「村上春樹とハイリスク・ハイリターン」について、生々しく、かつ現実的に語り合います。
「現実に自然とか神様とかが牙を剥いて、人の命を奪ったり、人の命を人質にとったときに」果たして言葉は何が言えるのか、と自らに問う穂村さん。そして、この世は「元々気持ちよくないものなんですよ、僕には」と言う枡野さん……。
果たして、言葉と世界と個人に、理想の関係はありえるのでしょうか?
<あなたにも津波がくるわしゃぼん玉>っていう句があるのね…(穂村)
穂村 でも僕、なんかね、その、人質にとられてるような気がするのよ。身体をもって、命をもって生きていることを。神様に人質にとられてるような気がして。(文章表現は現実社会に)従属してるに決まってるどころじゃなくて、この間の震災みたいなことがあったらね、言葉なんてあの圧力の中じゃ、ほとんど発することもできなくなったじゃん、あの直後。
枡野 はい。
穂村 例えば、東直子って歌人がいるんだけど。その人の俳句で、<あなたにも津波がくるわしゃぼん玉>っていう句があるのね。
枡野 ほんとは歌人だけど、俳句も作ってらっしゃる方ですね。
穂村 <あなたにも津波がくるわしゃぼん玉>――――。これは、(東日本大)震災の10年位前に作られていて、いい句だと思ったし、今もいい句だと思うけど。
でも震災の直後、東直子が被災地に行って、「じゃあ朗読します」と言って<あなたにも津波がくるわしゃぼん玉>という句はね、朗読できないって僕は思っちゃったのね。
枡野 まぁそうですね。
穂村 今はちょっと時間が経っちゃったからね、ちょっと違うかもしれないけど、あのときは絶対に朗読できないと僕は思っちゃったのよ。つまり、負けたわけよね。僕の理屈から言えば、言葉は現実に従属しないし、どんな重い、人が死んだ後でも、自立できるはずなのに。
枡野 はい。
穂村 特にこの句の場合は、実際の震災の10年も前に書かれているという現実もあるわけだから。でもやっぱり言えないよな、朗読できないよな、って思っちゃったのね。『ハッピーアイランド』っていう短歌の連作を、僕、審査員で受賞に推したことがあって……
枡野 (雑誌)『短歌研究』新人賞にですね。
穂村 そのとき、“ハッピーアイランド”っていうのは「福島」だと思ったのね。それで、この作品を受賞させたいと推したときに、「この人、どこ住んでんだろう?」って凄く思って。頼むから福島の人であってくれと。
枡野 はい。
穂村 福島の人がハッピーアイランドと福島のことを言うのは、あの震災の後にあっては誇り高いと思うけれども、例えば鹿児島の人とかが福島のことを連作で書いて、ハッピーアイランドって言うことは、許されないって思っちゃったんだよね。
枡野 そうですね。
穂村 だとしたら、枡野さんが正しいんだよ。現実のほうが重いんだよ。だって、どこに住んでるかによって『ハッピーアイランド』っていう連作の短歌の価値が変わっちゃうことを、僕は自ら「頼むから福島に住んでいてくれ」と思うことによって認めちゃったわけだから。
つまり僕の反論は、平常時においてはナンボでも言うけど、現実に自然とか神様とかが牙を剥いて、人の命を奪ったり、人の命を人質にとったときには、言えないと言う……
枡野 つまりそのような野蛮な意見なのに、「枡野さんのようにドヤ顔で言うのは嫌だ」ということなのですね?
穂村 ドヤ顔……。枡野さんにはドヤ顔はないけれども……。や、いいよ、別に(笑)。
枡野 なんかでも、あの、穂村さんみたいに、そこまでライン上に立って考えられてる方はいいと思ってるんですよ、ほんとはね。
ただ僕は歌壇にいないから、(歌壇にいる穂村さんが)仮想敵になっちゃってて。僕から見る歌壇って、そういうものにとっても無邪気なものだと思ってるんですね。
例えばひとつ例を出すと、「新聞歌壇」とかで、なんか左翼的な思想があたり前であるかのように短歌が作られていて、まったくそれと違う考えを持つ人が世界にいないような紙面構成になっているわけですよ。
ある政治家はダメ、ある政治家はいい。それが、そんなふうに流通してるのは短歌の世界だけだと思ってしまって。こんなの論壇誌だったら大問題になっちゃうよって思いながら見てるから、そういうことへのアンチの気持ちが常にあったりするんですね。
そうだなぁ、僕だってもちろん従属しないで書きたい。
長嶋有さんという小説家の方は、(作品というものは)「作者よりちょっとカッコ良く書けるんだ、大きく書けるんだ」というニュアンスのことをよくおっしゃっていて。そういうふうに(自分をカッコ良く)思って書いちゃいけないと(僕は)思ってるんですよ。
ただその一方で絶えず、自分の書くものは、そんなこと(現実の事件の言葉への影響)で台無しになってしまうんだという恐れを持っていないと、それも無邪気な……机上の……頭でっかちのものになってしまうと思ってるんですよ。
なんかそれは僕の被害妄想もあるかもしれませんけど、歌壇は頭のいい人たちが頭のいいことばっかし言ってるわりには、そういうとこ、とても弱い気がします。
穂村 ローカル……、日本って基本的にローカルだと思うんだけど、その中でも短歌の世界にはローカルさを圧縮したような生理があると思います。
枡野 実際には僕、例えば、一緒に演劇に出た仲間の女優さんの息子さんが警察官で、ごく普通に右翼的な考えを書いてる方だったりして、そういう人たちに「新聞歌壇」とか見てもらえないなって気がしたりするんですね。
だから、なんだろうな、う~ん……、僕の中ではその象徴が穂村さんの「西荻窪」を「花荻窪」と書くことだ、みたいな気がして……。
どっかうらやましいから言うんですよ。自分だって西荻窪を花荻窪と書いてみたいっていう気持ちがちょっとあるわけなんですよ(笑)。
なんで自分は書けなくて、こういう、余計なことしか書いてないと言われがちなね、本になってしまうんですよ。
つい先日も、梅崎さんというお世話になってる書店員の方がツイートしてるのを見ちゃったんですけど……。ちょっと読んでもいいでしょうか。
梅﨑実奈さんが、
<枡野浩一『愛のことはもう仕方ない』。根本が(という表現だったか忘れたけど)枡野さんに似てると言われて謎だったけどわかった。最初のほう、「地獄みてえな本だなぁ」と思ってしんどくなり、途中飽きる瞬間があり、でも盛り返し、その後一気に似てるの意味がわかった。>
――と書いてらして。
ご本人と似てるかどうかっていうのは、僕にはちょっとわかんないんですけど。でも僕、そんなに「地獄みたいな本」だとは思わずに書いてるんですよ、自分では。
1 2