「映画女優」としての壇蜜、その底知れぬ表現力

文=gojo
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壇蜜

(「私の奴隷になりなさい 壇蜜写真集 濃蜜」角川書店)

『私の奴隷になりなさい』亀井亨監督(2012年)

 文字通り「彗星のごとく」お茶の間に現れ、いきなり自称「エッチなお姉さん」として日本中を混乱に巻き込み、人々の日常にかなり強引にエロを持ちこんだ、壇蜜という女性タレント。彼女は、いわゆるブレイク直前に演技初挑戦として、亀井亨監督『私の奴隷になりなさい』という映画でスクリーンデビューしているが、作品と連動してさんざんグラビア特集を組んだオヤジ系週刊誌の読者を除けば、このことは、案外知られていないのではなかろうか。そして、この映画の中で壇蜜がいかにただの色ものビッチタレントではなく、立派な女優として感動的な仕事をしているのかも。

泣き叫び濡れる、壇蜜の迫力

 人気官能小説家のサタミシュウ著、SM青春小説シリーズとして大ヒットしてるらしい原作小説は未読だが、映画はなかなか過激だ。真山明大くん演じる、狙った女とは確実にやれると思い込んでいるちゃらちゃらしたイケメンヤリチンサラリーマンが、新しい職場で壇蜜演じるミステリアスな人妻の先輩と出会うところから、ストーリーは始まる。彼女がなかなか自分に興味を持たないことにムキになり、あの手この手で近づこうとするもまったく手ごたえを得られないヤリチン。ついに諦めようとした矢先、突然なんの脈略もなく彼女の方から「今夜、セックスをしましょう」というメールが届いたことから、ストーリーも映像もどんどんヒートアップしていく。

 その最初のセックスから、ハメ撮りはマスト。そのあとも壇蜜はいきなり男の部屋に現れてフェラチオだけして去っていくとか、緊縛とか剃毛とか、文字にするとかなりハードだ。ある種の男の願望丸出しの、現実味のないファンタジーのような、壇蜜ファンのオヤジだけが喜ぶエロ映画のように思えるが、これが決してそうじゃない。

 実は彼女を調教し操っていた、板尾創路演じる「先生」が現れた途端、壇蜜は「奴隷」として輝きだす。オールヌードどころじゃないボンテージの衣装やコスプレ姿でカメラの前に立つという女優魂も十分立派なのだが、それ以上に、すべての濡れ場で見せる、体当たりとしか言いようのない芝居から伝わってくる熱量が半端ないのだ。見ながら、「うわあこの人本気だ」と、見てるこっちも本気にならざるを得ないほどの熱演で、中盤、先生のことを想って泣き叫びながらオナニーをする3分以上続くシャワーシーンはほんとに息を飲む迫力、まさか自分が他の女がイク姿を見て心動く日が来るとは思ってなかった。

 ビッチが真剣にエロを極めると、男に媚びるとかモテるとか、そんなことはどうでもよくなって、もうただ圧倒的な唯一無二の存在になるんだな、女ってすごいな、と改めて深く感動してしまった。果たしてそれが男性陣にとって興奮の対象になるのか否かはよくわからないので、今作がエロ映画として成功しているかは微妙だが、男女問わず、テレビの飄々とした壇蜜しか見ていない視聴者には一度目撃してほしい。

壇蜜は「映画女優」である

 クライマックス、壇蜜と板尾と真山くんが揃い、先生との別れの儀式のようなセックスをいやいやながら受け入れる壇蜜の泣き顔が、今度はそれまでとは全然違う、本当に駄々をこねる子どものようで妙に可愛かったりするから、女優としてのこの人の表現力は底知れない。

 もちろんひとつの映画の中でここまで役者が輝くということは、監督や周りのスタッフの力が大き過ぎるほど大きいことは言うまでもなく、「主演女優をいかに美しくスクリーンにおさめるか」を真剣に考えて製作していることは疑いようもない。それを踏まえて、スタッフの想いにきちんと応えた壇蜜は、男性タレントでさえ裸にならないような最近では稀有な、脱げて芝居もできる、大変貴重な「映画女優」なのだ。

 だから私は、バラエティ番組に出て、ただのちょっとぶっ飛んだビッチキャラとして消費されつつある彼女を見るたび、「違う! ほんとの壇蜜はこんなんじゃない!」と一方的な老婆心丸出しで勝手に不安になってしまうのだけど、ふと、テレビでは完全に女優とは別の「壇蜜」というテレビタレントを演じ切ってる彼女の演技力に踊らされていることにも気づくのだった。

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