大いなるネタバレになるので詳細は書かないが、エイミーは「グッドガール/良きワイフ/素敵な金髪美女」であることに倦んでいたのだと思う。失踪して「エイミーであること」から解放された瞬間、彼女はまずカロリーの高そうなファストフードを貪り食う。その姿を見て、わたしたちは、自分たちが健康のためだけに普段そういう食事を我慢しているわけではないことを思い出す。他者から見て「良き自分」でいなければならないという観念に縛られてはいないかと。
エイミーが「エイミー」でなくなっていくにつれ加速していく“ある思い”は、夫(男性)にとって不可解以外の何でもないが、多くの「良きワイフ」は、一度はこんな風に困り果てる男の顔を見てみたいもんだと、ついにっこりと笑みがこぼれてしまうのではないだろうか。
(一見)理想的な妻と生活を共にしてきた、夫のニックは、地方出身の鈍臭さも愛嬌と呼べるさわやかな好青年で、彼もまた、どこにでもいる愛妻家として生きてきたようだ。
しかし、彼の周りには、妻のエイミーを筆頭に、双子の妹、嫌みな義母、うざい人気キャスター、教え子兼愛人、捜査を担当する女性刑事、と、ことごとく女しか現れない。そこには、味方になってくれる者もいれば彼を陥れる者もいるが、彼の男としての苦しみを心底理解してくれる相手はいない(妹の深い愛情はあくまで身近な身内だからであって、もしニックが姉であっても彼女は同じように接するだろう)。唯一ニックの立場や心境を理解してくれそうな敏腕弁護士の男性も、特に何をしてくれるわけでもなく、あっさりと退散する。
そんなニックを見ていると、途中から、さすがにここまで追いつめられるのはちょっと不憫かな……と思わなくもないがしかし、性懲りもせずエイミーに「エイミー像」を求め続ける男の登場に、いややっぱり男はこれくらいしなきゃわからないんだと、再び笑顔になれる。
この、デヴィット・フィンチャーという52歳の男性監督の作品(ドラマも含む)には、『ゴーン・ガール』と同じように、セックスシーンにやたらと男が女を舐める(クンニする)描写が出てくる。
しかしこの映画はラスト、クンニする暇さえ与えず、男女間のセックスという行為すらあっさりとすり抜け、その結果ニックをどん底に突き落とす。クンニできてた頃が幸せだった……と懐かしんでも既に手遅れ。
わたしたちが「エイミー」であることから「失踪」したとき、男が探しているのは誰なのか? その正体が誰であっても男はクンニを続けるのか? その答えを是非、にやにやしながら映画館で確かめていただきたい。
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