社会

「自己責任」では虐待事件を防げない。大阪二児放置死事件をモデルにした密室映画

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―― 『子宮に沈める』というタイトル自体が、公開前に物議を醸していましたね。子殺しは女の身勝手だ、という意図だと認識されたり。

緒方 ぼくはこのタイトルに、「母性神話」によって女性が子宮=母性に閉じ込められてしまうという意味を込めています。だから加害者となった母親を責める意図などなく、誤解なのですが……。

―― それだけ繊細な問題だということなのかもしれません。『子宮に沈める』は全編を母子が暮らすアパートの室内で撮影されていて、部屋の外でのシーンは一切ありませんね。お母さんがどこでどんな仕事をしていたのかも具体的に描かれてはいません。撮影の際に特に意識していたことは?

緒方 見る側があくまでも傍観者、観察者になれるように撮ることです。子供の立場にもお母さんの立場にも感情移入せず、同情心が偏らないように気を配りました。先ほど、加害者である母親へのバッシングに違和感を覚えたと言いましたが、事件の背景を理解してもらいたいがゆえに「お母さんだって大変だったんだ」という部分を描き過ぎてもいけない。同時に、被害者の子供たちに寄り添いすぎてしまうと、多くの人に響かなくなってしまうんです。

―― 母親に寄り添うと「大変な・特殊な状況のヒロインが事件を起こしてしまった」になるし、子供に寄り添うと「こんな健気な子供たちをネグレクトするなんてひどい母親だ」となってしまいますよね。

緒方 現実に起こった事件に対して、ぼくが憤りを持っていたとしても、映画を撮るとなったらそれは冷静に見せなくちゃいけない。ただ怒りを発散するための映画では、もともと伝えたかったことが伝わらなくなってしまう。それに「お母さんはこういうものだ」「だからわかってほしい」という押しつけもしたくありませんでした。それって女性が「母性」を押しつけられて苦しめられているのと同じ構図ですよね。

 なによりも、実際に事件現場でなにが起きていたのかはわかりようがありませんし、子供たちが置き去りにされていた50日間をたかだが95分で描くことはできません。警察の記録や新聞記事の断片から、なにが起きていたのかを想像し積み重ねていく、あとは映画を見てくれた人に委ねる。そういう作り方をしています。

緒方貴臣監督

緒方貴臣監督

虐待は社会で考えなくてはいけない

―― 大阪二児放置死事件はその後、母親も虐待を受けていたこと、「解離性障害」を持っていたという報道がありました。この映画ではそうした描写はありませんね。

緒方 それらも事件が起きた原因のひとつだったのだと思います。でも“幼少期の体験がツラかったから、こういう事件を起こしてしまった”という描き方だと、特別な人の話になってしまう。それでは意味がないと思いました。「母親は子供に愛情を持って接して当たり前だ」という母性神話そのものへの批判性と、どんな人でも加害者になり得ることを描く必要があると思ったんです。

―― 事件に関するニュースを積極的に追ったとしても、断片的な情報しか手に入りません。情報取得に消極的だったり受動的な態度だと、ますます偏った見方になりますよね。そこから読者・視聴者がどういう想像力を働かせられるかが重要だと思います。

緒方 得体の知れないものって怖いじゃないですか。だから悲惨な事件が起きると、「加害者は幼年期に親の愛情に飢えていた」みたいに、わかりやすい話で納得しようとするんです。しかも、大阪二児放置死事件みたいに「母親が風俗嬢」ということがわかったら、それを理由に叩こうとする。みんな自分のことを「普通だ」と思い込みたくて、自分とは違う環境で育ったり、よく知らない現場で仕事をしている人に対しては「あの人は特殊だ、だから事件を起こすんだ」と納得したがります。でも、安易にわかりやすい話に飛びついちゃいけない。親に虐待を受けていた人だけが子供への虐待をしてしまうとは限らないし、シングルマザーだから虐待をすると決まってはいないし、風俗嬢だから育児放棄につながるわけでもありません。もはや家庭内の虐待事件についてあまり大々的に報道されなくなっていますが、2月だけでも母が子を虐待死させてしまう事件がいくつもありました。みんな慣れてしまったからニュースとしての価値が落ちたのかもしれません。

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