「よき家族になるためにはどうすればよいか」を描き続ける監督
よい家族であることはそんなに大切なことなのだろうか。是枝監督の作品を見ると私はいつも疑問に思います。
映画の中盤、鎌倉の家に三人姉妹の母が訪ねてくるシーンがあります。
古くなってしまったこの家を売ってはどうか、と考えなしに言う母に長女は激怒するのですが、後にそのことを巡って次女と口論になり、家には気まずい空気が流れます。さらに一連のやりとり見ていたすずは、自分の母は姉たちの母から父を奪ってしまったのであり、奥さんがいるひとを好きになった自分の母はよくなかったと長女に嘆きます。長女は、結果としてすずを傷つけてしまったことを謝ります。そして、翌日あらためて訪ねてきた母とともに祖母のお墓参りに行き、駅まで送り届けるなかで、とりあえずの和解とでもいった空気が流れます。
これら一連のやりとりはほぼ原作通りで、原作でも映画でも山場のひとつになっているのですが、じつは、ある描写が映画からは省かれています。
お墓参りにいった母は、祖母の墓石にむかって「私、とうとうお母さんが望むような娘にはなれなかった」と言います。それを聞いた長女は「母もまた『母』である前に娘だったのだ」(モノローグ)と気付くのです。原作中でも大仰なシーンではなくささやかな描写ですが、ここがあるかないか、の違いはとても重要です。
私は、映画と漫画は根本的に別物だと考えているので、原作に忠実でないこと、あるいはモノローグを使用しないことを問題にしたいのではありません。私が指摘したいのは、このような「親と子の関係のありかた」が是枝監督の作品には一貫して欠けているということなのです。
ざっくりまとめると、是枝監督作品には徹底して「よき家族になるためにはどうすればよいか」という考えが貫かれている(それは前作のタイトルが『そして父になる』であることからも明白です。これはずばり「よい父になる」という意味でしょう)。他方、吉田秋生さんには「家族とはなにか」という考えが根底にあります。このふたつは一見似ているようで、まったく別のものだということです。
「よき家族」という世界観にとらわれている以上、世界は家族の外を出ることはありません。なので、映画版『海街diary』では、母はあくまでその家族の母でしかなく、娘になることはできません。
しかし、「家族」とは、ごく素朴に考えてみると、個人/ひとりの人間の集まりであり、それは個人=孤独が集まって、絆=家族を作り上げる場所ではないでしょうか。それは、ひとりひとりの過去と現在の「絆」でもあり、母が娘である事実と繋がるはずです。
吉田秋生さんは、デビュー作から一貫して孤独な人間たちを見つめ続け、そこにかすかな希望を感じさせることで、世界を描いてきました。一方で、映画『海街diary』は、可能なかぎり「孤独」を排除しようとしているように思えます。その仲良し姉妹のユートピアをクソだと言ってこき下ろす気はないのですが、この映画から伝わってきたことは、若くて可愛い女の子たちがきゃーきゃー騒いでるだけの二時間だな、ってことでしたとさ。
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