弱い大人と子どもたちはどのようにして救われるか。『きみはいい子』

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『きみはいい子』    呉美保監督

 具体的な地名はわからないけど、日本のどの地方にもありそうな、小さな新興住宅地。そこを舞台に、頼りない小学校の新任教師・岡野(高良健吾)は、なかなか言うことを聞いてくれない子どもたち(四年生)の世話や、よくわからない言いがかりをつけてくるモンスターペアレンツや上司たちに振り回され、恋人ともうまくいかない日々に、辟易している。

 近所では、夫が単身赴任中なため幼い娘とふたりで暮らす主婦・水木(尾野真千子)が、ママ友の前では完璧な母親を演じながらも、家の中では娘への虐待を止められないことに苦悩している。

 このふたりを中心に、認知症の疑いがある独居老女、障害を持つ息子を育てるパート主婦など、数人の人生の断片が描かれる群像劇となっている。

 一見あまりお互いに関係のないこの登場人物たちに共通していることは、彼/彼女たちが特にドラマチックな存在ではなく、それこそ、日本中のどこにでもいそうな、普通の人たち、ということだろう。虐待やイジメが一部の人だけに限られた特殊な出来事でないことは、毎日テレビや新聞から伝わってくるニュースを見れば誰にでもわかる。「私は違う」とあなたが思うのは勝手だが、隣人は違わないかもしれない。というかまず「隣人」と「私」は同じではないし。

 そんな人たちの、つまりわたしたちの、外から見ただけでは周囲の人間にはわからない、伝わらない悩みや心の傷と闇を、じっくりと描き、それが他人や他者と繋がることによって癒されていったり、受け入れられていく本作は、間違いなく感動作と呼べると思う(事実、クライマックスでは観客の多くが鼻をすする音が劇場に響いていた)。

 が、しかしである。

 この映画のチラシに書かれてたコピー、「かつて子どもだった、すべての人に。/抱きしめられたいのは、子どもだけじゃない」という言葉からもわかるよう、この映画は「大人」に向けて作られている。けれど、子どもだった頃に傷ついた大人たちが癒されたり救われたりすることで、現在進行形で傷つけられている子どもたちも連鎖的に癒されたり救われたりするかというと、そうではない。映画のなかの「子ども」たちは、誰が抱きしめてあげるのだろう、という疑問が頭から離れなかった。親が抱きしめられたいためだけに虐待されたら、子どももたまったもんじゃない。

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