エンタメ

弱い大人と子どもたちはどのようにして救われるか。『きみはいい子』

【この記事のキーワード】

傷ついた大人を肯定するだけでいいのか

 岡野が受け持つクラスには、反抗的な男子や生意気な女子に交じって、クラスの中では目立たない存在だが、家庭で問題を抱えているらしい男子生徒がいる。どうやらその子は、無職の義父から酷い扱いを受けている。そのことに気付いた岡野は、男子生徒と個人的に付き合いはじめ、自宅訪問にこぎつけるも、乱暴な義父に逆ギレされたら何も言えず、おずおずとその場を去る。

 水木は、自分の行為がダメなことだとわかりつつ、娘を折檻し、そのあとは、自己嫌悪のためなのか、ひとり風呂場にこもって涙する。

 そんな弱い大人たちが、強くなる、もしくは、弱くてもいいんだと自己肯定できるようになるまでのわかりやすいきっかけ、その装置として「傷つけられる子どもたち」が用意されていた。そこに違和感を覚えた。

 また、若い小学校教師である岡野を、「今どきの普通の若者」として描きたかったのかもしれないが、イジメを受けた生徒の母親からの電話を面倒がったり、他人の家で断りもなくタバコを吸おうとしたりと、「今どきの普通の若者」像を貶めるキャラで、全く観る者の共感を誘わない。こんなやつが彼氏だったらそりゃ私だって他の男に逃げるわ。

 「気取ったママ友連中」の中で、唯一、水木のことを親身に考えてくれる近所の主婦(池脇千鶴)が、わかりやすい肝っ玉母さん的なキャラクターであることも、なんだかなあという感じだ。「気取ったママ友」はワルモノで、「肝っ玉母さん」がイイモノ、という括りが、もう。良い/悪いの描き方が一面的で雑である。

 個々の人間の繊細な心の波を描いているようで、そのほとんどが、ざっくりとしたわかりやすいイメージの中で完結している。だから粗いさが目立つ。

 子どもの頃に酷い体験をした人は自分も子どもに同じことを繰り返してしまう、らしい。だけど、苦しんだ過去を今も抱えている大人に、子どもが配慮する必要はないし、子どもを傷つけていい理由にもならないわけで。傷つけられた子どもたちがみんな大人へ理解を示し過ぎでいい子過ぎるのもきつい。原作小説の評判が高いだけに残念だ。せっかく映画なのだから、別のドラマを作り上げることができたのではと思ってしまう。

 もちろん、映画のラストは、「彼らのその後」に希望的な予感を残す作品となっている。その優しさを否定はしないが、その世界は大人も子どもも関係なく、「いい子」しかいないのだろうか。それはちょっと、いやだ。

1 2

「いいね!」「フォロー」をクリックすると、SNSのタイムラインで最新記事が確認できます。