『この国の空』 荒井晴彦監督
太平洋戦争の終結から70年が経過した今年の7月16日、安全保障関連法案が与党の強行採決によって衆議院を通過した。「戦争法案」と呼ばれもするこの法案の是非や強行採決というプロセスについては採決以前から今にいたるまで多くの議論が行われているが、なかでも反対派において強い存在感を放っているのが、SEALDs(Students Emergency Action for Liberal Democracy – s)だろう。その名のとおり「日本の自由と民主主義の伝統を尊重すること」を理念として掲げ、毎週金曜に国会前で行われる抗議運動を主催するかれらの中心(?)メンバーが10代後半から20代前半の学生であることを知ったとき、まず私は素直に驚いた。それは、自分が学生だったときとくらべて、かれらがあまりにしっかりと思考し行動していたというベタな理由からなのだが、しかし同時に、「本当はこんなことやらずに済むのであればやりたくない」という趣旨の発言が、とても切実なものとして感じられたのだ。
今回取りあげる荒井晴彦監督作品『この国の空』の主人公の里子(二階堂ふみ)は、SEALDsや、そしてかつての私と同じ「19歳」を、終戦間際の1945年に生きた女性である。
結核で父をなくし、教師を目指していたものの母・蔦枝(工藤夕貴)に反対され、両親のいる子に引け目を感じさせたくないという蔦枝の意をくんで家事手伝いとなり、いまは艇身隊逃れで町会勤めをしている里子は、徴兵と疎開で「空っぽ」になった東京の杉並区の町に蔦枝と二人で暮らしている。燐家には、妻子を疎開させ、仕事の事情で一人東京に残った市毛(長谷川博己)が住んでいるのだが、ふとしたきっかけから里子は市毛の身のまわりの世話をするようになる。里子は市毛に惹かれているようであり、市毛もまた里子を意識しているように見える。ある日、空襲で自宅と家族をなくした叔母の瑞枝(富田靖子)が横浜から逃げてくる。精神状態が不安定な瑞枝に対して、最初は心よく迎えいれた蔦枝もいらだちを隠さなくなっていくのだが、里子の気遣いもあり、三人は徐々に協力しあう関係へと変化していく。やがて戦況が悪化し、終戦が近づいていくなかで、里子と市毛の距離も急速に縮まっていくことになるのだが……。
『この国の空』には、タイトルに反して「空」がほとんど映らない。空襲場面や焼け野原も数カットだけ遠くに見えるのみだ。さらには、兵隊も出てこないので、戦地に向かうものと残されるものの今生の別れもなく(父は既に他界し、市毛は丙種のため徴兵されていない)、また食糧不足による餓えなども描かれることがほとんどない。一方で、この作品に頻出するのが「食事」のシーンである。
雑炊や南瓜の炊き込み御飯、漬け物や鮫(!)の切り身、パイナップルの缶詰や麦焦がしなどを食べながら(親戚の結婚式ではマグロの刺身や豚の角煮なども食べたらしい!)交わされる登場人物たちの会話には、戦時下の不安のようなものはあっても、悲壮感はあまり感じられない。また、里子と市毛の「不倫関係」の間にも、とうもろこしやおにぎりやトマト、そしてパンと紅茶などが出てくる。
これらのシーンを見ていると、『この国の空』が描こうとしているのは、多くの戦争映画が描いてきた「死」をめぐる物語とは決定的に違う「日常」の物語であり、そしてそこに生きる人々であることがわかるだろう。しかし、それが徹底しているからこそ、この「日常」があくまで戦時下=非日常における「日常」であることが浮かび上がってくるのだ。
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