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戦時下、空っぽになった杉並の日常と普通のひとりの女『この国の空』

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 教師になることをあきらめた里子は、結婚をして子どもを育てたいと望んでいた。この望みの「普通」さは、いまの時代から考えれば無批判すぎるかもしれないが、それを疑うことも、そして信じることも戦時下ではできないし、そもそも選択肢そのものが存在しないのだ。空を映さず、人気もない「からっぽ」の町の映像がつくりだす逆説的な閉塞感が、里子の行き場のなさをさらに際立たせているように見える。

 徐々に里子への欲情を隠さなくなり、ギャグに思えるほどどうしようもないエロオヤジと化したキモい市毛にたいして、里子が意を決したように自らアプローチしていくのが、比喩ではなく本当に泣けてくる。里子は決して市毛に本気で恋をしたから処女を捧げたわけではなく、十代の性欲と、男を知らないまま死ぬかもしれないという絶望感からセックスをしたことは明白だ。しかし、劇中の最後のセリフにもあるように、戦争が終わっても、彼女の不倫は終わらない。里子は、国が起こした戦争と、既婚男の身勝手の、両方に人生を弄ばれた、歴史に一切名前が残ることのないひとりの小さな女だった。涙なしには見られないその不幸も含め、普通の幸せを望みながら普通でいることができなかった「普通の女」なのだ。

 たとえば一部で物議を醸している、SEALDsの女性がデモのスピーチで読みあげた手紙。批判の対象となっているフレーズの検証はここでは控えるが、私には、この手紙はなにかを「代表」したものではなく、あくまで彼女個人にとっての戦争への怒りと「小さな幸せ」について書かれたものに思えた。またSEALDsは、彼女に限らず、かけがえのない個人としての「普通」さをとても大切にしているのではないだろうか。

 劇中で朗読される茨木のり子の詩「わたしが一番きれいだったとき」が、まったくの別人である里子の心情に重なるように、この作品も多くの「普通のひと」に見てもらいたい。そして、このような視座を持った「戦争映画」こそ「あたりまえに」たくさん作られてほしいものである。

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