
『カツカレーの日』(小学館)
こんにちは、さにはにです。今月も新しい女性の生き方のヒントを漫画から探していきたいと思います。よろしくお願いします。
今回ご紹介するのは、『姉の結婚』や『娚の一生』など、結婚や男女関係について深みのある作品を多く手がけられている西炯子先生の最新作、『カツカレーの日』(以上、すべて小学館)です。
物語は、主人公であるゼネコン系会社員の斉藤美由紀(28歳)が、2年間同棲していた「生活力のない彼」との関係を解消し、婚活を開始するところから始まります。一部上場の優良企業が加盟するお見合い組織に参加するものの、なかなか「思うような相手」に出会えない。その心境を読書カフェのノートに書き綴ったところ、「あんたは間違っている」との辛辣なコメントを寄せてくる人物が現れるところから物語は本格的に動き出します。
往復書簡のようなやりとりをノートの上で続けるうちに、その相手が同じ会社に勤める50代の高橋だとわかります。年齢差のある二人ですが、果たしてその関係は……? というところで、第1巻は終わっています。
アラサーの女性に他者が強烈な「ダメ出し」をしてくるという物語の構図は、先月ご紹介した『東京タラレバ娘』(講談社)にもつながる図式にみえます。一昔前は、魅力的な主人公に読者が強く没入し、彼女の恋愛の行方を我が事のように見守りながら応援するというストーリーが人気を集めていました。これに対し、主人公の感情のゆらぎに寄り添いながら同時に「ダメ出し」を描くという『タラレバ』や『カツカレー』に見られる手法は、現代の女性の抱える「生きにくさ」とそれを生み出してしまう社会構造が反映されているように見えます。今回は『カツカレー』を題材に、「ダメ出し」ニーズを生み出す、日本の社会構造について考えたいと思います。
女性が結婚相手に「情緒」と「生活手段」を求める背景
女性の抱える「生きにくさ」原因としてよく挙げられるものは、生き方が多様化したことではないでしょうか。1980年代以降、日本の女性は「社会進出」を果たし、性行動や恋愛が「自由」になり、さまざまな選択肢が選べるようになりました。それより前の日本では、女性の大学進学率が低く、性行動や恋愛も今日に比べるとかなり限定されていました。また、生き方の大部分が年齢によっておのずと決まっていたという点も大きな特徴です。
今回の『カツカレー』に関連して注目しておきたいのは、80年代と比べて、やはり自分で働くという道が格段に選びやすくなったこと、とりわけ、結婚後に「家事育児に専念する専業主婦」以外の生活が珍しくなくなったことです。

図1
図1に専業主婦世帯と共働き世帯の数の変化を示してみました。これを見たらわかるように、1980年代の共働き世帯は専業主婦世帯の半分ぐらいしかありません。しかし、専業主婦世帯の数はその後一貫して減り続け、1990年代に共働き世帯と拮抗し、2000年から共働き世帯が専業主婦世帯を上回るようになって今日に至っています。
「働く」という選択肢を得たのは大きな変化なのですが、だからといって「嫁」や「専業主婦」という役割への期待が消失したかというと、そのようなことは起きませんでした。つまり、今の日本の女性にとって「選択肢の増加は単にやるべきことが増えただけ」という結果につながっています。
朝日新聞デジタルで本作を評した松尾慈子さんは、「本作の主人公もしかりだが、仕事をもってバリバリ働いていても、それだけだと周囲に『幸せそうね』と認定してはもらえないし、本人もそれだけでは足りないと思っている」とした上で「女を生きるということはなんと息苦しいことであろうか」と論じています。ただ選択肢が増えただけではなく、全てをやらなくてはいけないという女性の現状を、松尾さんも本作の背景として感じているようです。「家庭か仕事か」ではなく「家庭も仕事も」手に入れないと幸せだと認めてもらえない。やるべきことの多さがプレッシャーとなって女性を追い詰めているようにみえます。
「愛情なんて不安定なものでは家庭を維持できない。生活の安定が確保できる相手ときちんと結婚したい」と美由紀は語ります。情緒と生活手段の両方を同じ相手で達成できればよいのでしょうが、それまで同棲していた彼氏は劇団員のフリーター。「生活の安定」とは程遠い男性です。だから「生活力がない」彼氏を手放して「生活力のある」相手を婚活で得ようと行動するのです。愛情ではなく安定に今後の人生目標とする美由紀の割り切りは、女性が抱える「生きにくさ」に対するひとつの処方箋のようにもみえます。
作中では(たぶん現実にはありえない高頻度で)収入、年齢、身長などの条件を満たす男性が次々と登場しますが、自分を見てくれない、ピンとこない、といった理由で交際に至ることもなく、美由紀はどんどん相手を変えていきます。その理由は、作中でも指摘されているように「誠実さ」や「家庭を優先してくれるか」といった「好み」を優先させている点にあります。割り切っているようにみえて、実際は情緒と生活手段の両方を結婚に求めているといえるでしょう。