一連の自傷的行為は、「母に相応しい娘になれなかった自分」が、どれだけ最低な女かの証拠を見つけ出すためにシェリル自ら望んだことのようだった。自分で自分を最低だと信じられる、自尊心の欠片もない人間になることで、これからの人生に何の期待も希望も持たず、ただ価値をなくして生きたい。そんな身勝手な開き直りで、シェリルは夫も友人も傷つけ、手放し、望んだようになれた。そうして初めて、取り返しのつかないことをしたと気付く。気付いたところで死んだ母親が帰ってくることはない。しかし彼女は、精神的にも肉体的にももう一度自分を取り戻すために、1600キロをひとりで歩くことを決意する。
なんだか、人生に迷ったアラサー女の自分探しの旅的などうでもいい話のようだが、本作を見て、間違っても「わたしも明日から大自然に囲まれながら山登りして人生をリセットしよう!」とは思わない。なぜなら、雪や水の中を足の爪が折れても必死で歩く姿や、他人からイヤな顔をされるほど全身から異臭を漂わせての旅は、本当に辛そうだから(ちなみに、今作の原題は原作本と同様『wild』なので、この癒し系な邦題に騙されたと感じる観客は少なくないだろう)。そして、彼女にとって険しい道を歩くことが必然ではなく、もしかしたら全然別の行動でも、彼女の目的は達成されたかもしれない。1600キロ歩いたことに限らず、何かをすることで、彼女は自分の人生と向き合い、自信を取り戻すことが必要だったのだ。
また、シェリルは若くてきれいな女であったため、一人での山歩きには、「若くてきれいだから」というだけで余計な苦痛がついて回っていた。道中で出会った男性の登山者たちからレイプをほのめかすような怖い思いをさせられたり、女だから最終的には誰かが守ってくれるんだろうと嫌みな言葉をかけられたり。この映画は、山歩きの過酷さだけでなく、それと同じくらいに女がただ生きていくことの過酷さも描かれる。それは、日本では『キューティーブロンド』シリーズでのおバカな女の子キャラの印象が強い主演のリース・ウィザスプーンが、本国アメリカでは自ら映画の製作会社を設立し、男社会なハリウッドの中で生き抜いている現実が大きく影響しているのだろう。だからこそ、この作品の主演を彼女が演じる姿にも説得力が感じられる。
シェリルが具体的に体験した辛い過去は、言ってしまえば、これまでにも何度も聞いたことのあるような、特別ショッキングな内容ではない。しかしそんな物語を現代にもう一度映画にして語り直そうとする女性たちの思い。
すべてを失った女がひとりで荒れた道を歩くということ、だからなんだと言ってしまえばそれまでの話。だけどこころに響くのは、他人からだからなんだと一蹴されるちっぽけな思いこそが、わたしたちにとってはまさに生きるということなのだと、シェリルとリースは語りかける。
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