『嵐が丘』の概要
皆さんはエミリー・ブロンテの小説『嵐が丘』(Wuthering Heights)を読んだことはおありでしょうか。1847年に書かれた作品で、ヨークシャの荒涼とした野を舞台に展開する激しい愛の物語は長年数多くの読者に愛されています。恋愛小説としてはイギリス文学史上最大の人気作のひとつといえるでしょう。
『嵐が丘』はなかなか一筋縄ではいかない小説です。話の大部分は女中のネリーがよそ者・ロックウッドに「嵐が丘」にまつわる物語を話す、という枠に入っています。前半はアーンショー家の娘キャシー(キャサリン)と、一家にひきとられた身元不明の孤児ヒースクリフの恋からはじまります。中盤はキャシーが他の男と結婚してしまった後にヒースクリフが企む復讐などが軸になります。そして後半はキャシーやヒースクリフの子どもの世代が中心人物として登場します。壮大なスケールで、長い時間をかけて展開する愛と憎悪の物語なのです。
『嵐が丘』はセクシーな小説か?
ひとつ、私がこの小説について昔から気になっていることがあります。それは、この小説はセクシーな小説なのかそうでないのか、ということです。私がはじめて日本語訳でこの小説を読んだのは高校生くらいの頃でしたが、その時に読んだ文庫本の訳者あとがきに、こんなことが書かれていたのです。
[『嵐が丘』は]まことに強烈な恋愛を描いていながら、どんな控え目な女性の作品にも現れる肉体的、あるいはエロティックな描写がほとんどみられない[。] (『嵐が丘』田中西二郎訳、新潮文庫、1989年、p. 583)
えっ、この小説は「エロティック」ではないの!? と私は思いました。高校生なので細かいところはあまりよくわからなかったですし、たしかに明白に「エロティック」と言えるような性描写はありません。それでもこの小説は雰囲気が妖艶ですし、私の基準ではじゅうぶんセクシーでしたから、大人にはわかるようないろいろとセクシーな暗示があるのだろうと思っていたのです。
このあとがき自体は1961年に書かれたようなのですが、他のところでエミリー・ブロンテのことを「世間知らずの28、9歳の老嬢」(p. 572)と呼ぶなど性差別がひどく、2000年頃に高校生だった私にとっては「こんなに女性作家を悪く言うなんてひどすぎる!」とびっくりするようなものでもありました。
大学に入って原文で『嵐が丘』を学んだ時もやはりセクシーな小説だと思ったので、このあとがきだけが鈍感なのだろうくらいに思っていました。ところが、今年になって、勤め先の大学で使っている教科書の中で『嵐が丘』について似たような記述に出会いました。
これほどの激しい愛の物語はないであろう。しかし、それにもかかわらずこの作品には扇情的な官能性は感じられない。(白井義昭『読んで愉しむイギリス文学史入門』春風社、2013年、p. 88)
私は頭を抱えてしまいました。『嵐が丘』がとてもセクシーな小説だと思っていたのは私だけなのでしょうか? 私の頭が何かよからぬ妄想でいっぱいなだけで、この小説は実は全然官能的ではないのでしょうか?
しかしながら、どうもこの小説がセクシーだと思っている人は私だけではないようです。論文データベースでちょっと探してみただけで、『嵐が丘』のエロティシズムに言及している批評がいくつか見つかります。また、1939年にローレンス・オリヴィエ主演で作られた映画『嵐が丘』は、アメリカン・フィルム・インスティテュートが1998年から2008年までに発表した「AFIアメリカ映画100年」という映画ランキングシリーズで二度も名作としてとりあげられ、連動して製作されたCBSのテレビ特番では、ヌード描写などは一切ないのに「セクシーな作品である」ということがオススメ理由のひとつになっていました。映画と小説は違いますが、この作品の「セクシーさ」の有無を探るなんらかのヒントにはなります。
さらに私が確信を持ったのが、今年の夏に研究調査のためヨークシャに行った際、空き時間に訪れたハワースで見た光景です。ハワースは『嵐が丘』の著者エミリーはもちろん、姉で『ジェーン・エア』(Jane Eyre)の著者であるシャーロットと妹で『ワイルドフェル・ホールの住人』(The Tenant of Wildfell Hall)である著者アンが住んでいました。今では世界から文学ファンが訪れる聖地です。そこで私はこんなものが売られているのを見かけました。
ちょっとうまく撮れませんでしたが、『ジェーン・エア』と『嵐が丘』、そしてなぜか全く関係ないジェーン・オースティンの『高慢と偏見』(Pride and Prejudice)のカップが売られています。上の段の右から三番目にかかっているカップに書かれているのは「あんた自分がけっこうハンサムだと思わないの? 私はそう思うけど。変装した王子様といってもいいくらい」という、『嵐が丘』でネリーがヒースクリフに言う台詞です。
下の段には『高慢と偏見』の男性主人公であるダーシーとヒースクリフのカップがぶら下がっています。ダーシーといえば、1995年にBBCのテレビドラマ版でコリン・ファースが演じて以来、英国女性の間では英文学史上最強のセックスシンボルと謳われるキャラクターです。そんなダーシーと一緒にカップが売られているからには、女性ファンにとってはヒースクリフもダーシー同様のセックスシンボルであるに違いない、と私は思いました。ヒースクリフはワイルドで残酷で激しいので、紳士的なダーシーとはちょっと違う層にアピールするのでしょう。
セックスシンボルが出てくるセクシーな小説を読んだ世界中の女の子がハワースにやってきて、うっかり冗談みたいなカップを買ってしまう。やはり『嵐が丘』はセクシーな小説に違いないのです。
腐女子でよかった!『嵐が丘』の関係性
ここまで来て、私はあることを思いつきました。『嵐が丘』にセクシーさを見いだすためにはちょっと特殊な技術を必要とする読み方、腐女子的な読解技術が必要なのではないか、ということです。
腐女子についてはとくに説明するまでもないでしょうが、男性同士の恋愛を扱った作品を愛好する女性のことです。男性同士の恋愛を扱ったオリジナルの作品を書いたり読んだり見たりするほか、男性同士の友情などが扱われた作品からそれを同性愛的に再解釈したファンフィクションなどを作る女性も腐女子と呼ばれています。英語圏では「スラッシャー」(slasher)と呼ばれる人々がおり、「腐女子」と似た使い方をされています。
腐女子やスラッシャーはある意味できわめて生産的な読解技術を有しており、本来全く性描写などがない作品でも、男性同士の関係性からエロティシズムを読みこむことができると言われています。こうした読解技術を身につけていない人にはなんらセクシーに感じられない関係性であっても、腐女子はそこからセクシーさを見いだすことができるのです。
『嵐が丘』におけるキャシーとヒースクリフの関係は、腐女子やスラッシャーがセクシーだと思うような男性同士の関係に似ています。キャシーとヒースクリフの間に性的な描写はありません。しかし小説の前半に、台所でキャシーがヒースクリフへの思いをネリーに告白する場面からわかるように、キャシーとヒースクリフの心は分かちがたく結ばれています。さらにキャシーとヒースクリフは実はどちらも「女性」的な性質を賦与された人物、等しく男性的社会秩序から逸脱した者として描かれています。
フェミニスト批評の金字塔と言われるサンドラ・ギルバートとスーザン・グーバーの『屋根裏の狂女--ブロンテと共に』(山田晴子、薗田美和子訳、朝日出版社、1992年)は、ヒースクリフはさまざまな表現によって「『女性的な』不合理な自然」(p. 234)を象徴するものとして描き出されていると指摘します。ギルバートとグーバーによると、ヒースクリフは性別不明の子どもとして「彼」ではなく「それ」(it)と呼ばれる存在として作品に登場します(p. 234)。さらに伝統的に男女の二項対立で表現される様々な象徴体系において女性に賦与されるような「孤児」「肉体」「大地」「妖怪」といった性質を注意深く与えられています (pp. 34)。女であるキャシーと、男でありながら男性的世界から締め出されているヒースクリフの間では、階級間はともかく男女間の差が象徴的な意味で打ち消される傾向があり、2人はある意味で対等なバディ、相棒です。互角にやり合う相棒同士、セックスが表に出てこない深い精神的結びつき。腐女子の大好物ですね。セクシーです。
これは単なる仮説にすぎない私論ですが、腐女子的な読解技術を身につけているかいないかで『嵐が丘』から読み取れるセクシーさが違ってくるのかもしれません。性描写のない小説から性的な含意を読み取るのは文芸批評の得意分野で、とくに一見全く同性愛を扱っているとは思えない小説に隠れた同性愛の要素を丹念に拾うことで鮮やかな読みの地平を開くような研究はたくさんあります(気になる方は大橋洋一監訳『ゲイ短編小説集』平凡社、1999年を読んでみてくださいね)。
一方で、こうした批評テクニックには向き不向きがあることも確かだと思います。『嵐が丘』は異性愛についての小説ですが、こういう読解技術がある人は同性間の関係を扱った小説を読むような心構えで読んだほうがいいのかもしれません。『嵐が丘』をとてもセクシーな小説として読めるのですから、自分が腐女子的な読解技術の持ち主でとてもよかったと思います。もしこの記事の読者の中に腐女子の方がいらっしゃれば、是非『嵐が丘』を読んでみてください。