『嵐が丘』におけるキャシーとヒースクリフの関係は、腐女子やスラッシャーがセクシーだと思うような男性同士の関係に似ています。キャシーとヒースクリフの間に性的な描写はありません。しかし小説の前半に、台所でキャシーがヒースクリフへの思いをネリーに告白する場面からわかるように、キャシーとヒースクリフの心は分かちがたく結ばれています。さらにキャシーとヒースクリフは実はどちらも「女性」的な性質を賦与された人物、等しく男性的社会秩序から逸脱した者として描かれています。
フェミニスト批評の金字塔と言われるサンドラ・ギルバートとスーザン・グーバーの『屋根裏の狂女--ブロンテと共に』(山田晴子、薗田美和子訳、朝日出版社、1992年)は、ヒースクリフはさまざまな表現によって「『女性的な』不合理な自然」(p. 234)を象徴するものとして描き出されていると指摘します。ギルバートとグーバーによると、ヒースクリフは性別不明の子どもとして「彼」ではなく「それ」(it)と呼ばれる存在として作品に登場します(p. 234)。さらに伝統的に男女の二項対立で表現される様々な象徴体系において女性に賦与されるような「孤児」「肉体」「大地」「妖怪」といった性質を注意深く与えられています (pp. 34)。女であるキャシーと、男でありながら男性的世界から締め出されているヒースクリフの間では、階級間はともかく男女間の差が象徴的な意味で打ち消される傾向があり、2人はある意味で対等なバディ、相棒です。互角にやり合う相棒同士、セックスが表に出てこない深い精神的結びつき。腐女子の大好物ですね。セクシーです。
これは単なる仮説にすぎない私論ですが、腐女子的な読解技術を身につけているかいないかで『嵐が丘』から読み取れるセクシーさが違ってくるのかもしれません。性描写のない小説から性的な含意を読み取るのは文芸批評の得意分野で、とくに一見全く同性愛を扱っているとは思えない小説に隠れた同性愛の要素を丹念に拾うことで鮮やかな読みの地平を開くような研究はたくさんあります(気になる方は大橋洋一監訳『ゲイ短編小説集』平凡社、1999年を読んでみてくださいね)。
一方で、こうした批評テクニックには向き不向きがあることも確かだと思います。『嵐が丘』は異性愛についての小説ですが、こういう読解技術がある人は同性間の関係を扱った小説を読むような心構えで読んだほうがいいのかもしれません。『嵐が丘』をとてもセクシーな小説として読めるのですから、自分が腐女子的な読解技術の持ち主でとてもよかったと思います。もしこの記事の読者の中に腐女子の方がいらっしゃれば、是非『嵐が丘』を読んでみてください。