今回は2009年のアメリカ映画『(500)日のサマー』を取り上げます。突然2009年の映画を取り上げることにしたきっかけのひとつは、昨今、恋愛を通じて男子のアイデンティティを描いた作品が少ないなと思ったところ、5年前にはけっこうあったということを知ったからです。もちろん、昨今もあるにはあるのでしょうが、日本で目立つのは、ヤンキーものや部活ものなど、ホモソーシャルな世界を描いた青春群像劇や、イケメン俳優が壁ドンや顎クイをする役割を演じる女子向けのラブ・コメディが多いのが現状ではないでしょうか。今後この連載でも「現在の男子」や「現代の恋愛」が描かれた映画を追っていきたい。その前に、まずは指標としてこの映画を取り上げておきたいと思ったのです。
この物語は、建築の仕事に憧れながらもグリーティングカード会社で働くトムと、その会社に秘書として入って来たサマーが出会うところから始まります。2人は少しずつ親密になっていくのですが、サマーはトムと恋人のような付き合いをしているにもかかわらず、はっきり「付き合う気はない」と言います。トムは、不本意ながらも、そんな関係を受け入れてしまうが……というもの。
トムは恋愛や運命を信じています。冒頭では、思春期に映画『卒業』を拡大解釈していたことが描かれています。『卒業』は、1967年にアメリカで公開された恋愛映画です。思いを寄せる女性が他の男と結婚することを知った主人公が、結婚式場である教会に乗り込み、花嫁を奪い取るラストシーンが有名な映画です。『(500)日』の主人公のトムがこの『卒業』を拡大解釈しているということは、恋愛を信じているという人となりをわからせるセリフです。
一方、ヒロインのサマーは恋愛や運命を信じていません。サマーは、奇抜な恰好をするでもなく、おしゃれすぎるでもなく、ごく普通の女の子。もっと言えば、男子が幻想を抱きやすい清純さを外見に持ちあわせた女の子です。ところが、考え方は進歩的。「彼氏はいらない」とトムやその友人に告げ、彼らが微妙な表情を見せると、「女性の自由と自立に反対?」「誰かの所有物になるのは最悪」と言いきる。性に対しても奔放なので、公開当時はそのビッチさに憤る人も多かったようです。彼女は、自分の長い髪を愛し、そして、それを切ってしまっても、心が痛まない人物と紹介されます。これは、女であることを楽しんでもいるし、その楽しみだけにこだわっているわけではないことを意味していると思います。
「誰かの所有物になるのは最悪」と言ったサマーは、トムの友人から「男まさりなんだな」と言われてしまいます。必ずしもそうとは言いませんが、恋愛を信じていない女の子は男勝りで、恋愛を信じている男の子は女の子っぽいといわれることは、この映画に限らずあるのかもしれません。
すがすがしい『(500)日』と後を引く『モテキ』
ここまで、「恋愛を信じる」と書いてきましたが、言い換えれば、それは相手に期待をしてしまうと言うことと同義かもしれません。
でも、この映画の「恋愛とはこういうものだ」という思いのないサマーが、「恋愛はこうであるべき」と思っているトムを翻弄することになる部分を見ると、恋愛を信じすぎると、割を食うこともある時代になりつつあるのかなと思いました。
以前ならば、恋愛を信じ、それによって救われるのは、いつも女子とみなされてきました。恋愛を経て結婚することでしか安定した幸せの道がないなら、勉強や仕事をするよりも、恋愛に努力をしたほうが安心と思う人が多いのは納得のできること。少し前の女子は、「勉強はそこそこにして、女の子らしくしなさい」と大人から注意されることもあったのではないかと思います。そういう視線が、女性誌の「モテ特集」や「女子力」という言葉を生んだのではないかと思います。
ところが最近は、「女子力」という言葉もなんとなく陳腐になりつつあり、むしろ「女子力」を信奉しすぎると「スイーツ」と揶揄されるようになっているように感じます。そして、女子力信奉の根底にあるであろう、ロマンチックラブ・イデオロギーを信じても、さほど安心・安定への効力はなくなってしまった。
1 2