今回取り上げる映画『ビリギャル』は、2015年の興行収入ランキングの16位に入るほどのヒット作品ですが、話題になったのは知っていても、馴染みがないという人も多い映画かもしれません。
原作の『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應義塾大学に現役合格した話』もヒットしましたが、タイトル通り、学年でビリのギャルが一年で偏差値を40上げて慶応大学に合格するという話で、映画公開後には、たくさんの人に見られたのと同時に、学年ビリとはいえ、主人公の通っていた学校が進学校であったこと、偏差値が悪かったのは国語だけだったこと、受かった学部の科目が英語と小論文だけだった、高額な塾に通うだけの財力があったなどとインターネット上で突っ込まれることもありました。
今回は、そんな論点も含め、また別の視点からもこの映画を見てみたいと思います。
ビリギャル家族はよくある地方の家族?
この映画を見て私が気になったのは、何と言ってもビリギャルの家族のことです。ビリギャルは5人家族、ビリギャルのさやかに、弟の龍太、妹のまゆみ、母親のあかり、父親の徹がいます。
ビリギャルは小学生のときに学校に上手く馴染めず、途中で小学校を転校します(いじめの存在も臭わされていました)。しかし新しい小学校でも学校に馴染めないビリギャルに対して母親のあかりは、「合格しちゃえば、勉強しないで好きなことがずっとできるんだよ」と言って中高大一貫の私立中学への受験を進めます。無事、私立中学校に合格したビリギャルは、母親の言葉通り学生生活を謳歌し成績もビリ。しかしあるきっかけで小規模塾に通いだし、徐々に真剣に大学への受験勉強を始めます。
父親の徹は中古車販売の会社を経営している社長です。社長本人の顔がお店の幟に印刷されているような会社で、一代でのしあがったワンマン社長なのだろうと想像されます。父は弟の龍太に、自身のかつての夢であったプロ野球選手になって欲しいと人生を賭けています。その賭け方はちょっと度を越していて、息子の送り迎えのために、送迎バスを購入するほどです(中古車販売をしているから、安く手に入れやすいのではないかと思いますが)。
一方で、娘たちにはまったく関心がありません。それどころか、勉強を始めたビリギャルが慶應大学を受験することに終盤まで反対し続けますし、そこそこお金はあると思われるのに、受験のために通う塾のお金すら出そうとしません。妻のあかりは仕方なく、娘たちのために貯めていた定期預金と保険を解約し、昼のパートだけでなく夜の配送業もはじめ、娘たちのためのお金を作ります。
ここまで見ていると、ビリギャルって地方の家族にわりとよく見られるジェンダー観を表しているのかもしれないと思いました。
今は変わってきているかもしれませんし、地方と言ってもそれぞれのいる集団によって感覚は違うかもしれませんが、地方で高校生活を送った当時の自分を思い返すと、進学校に通っている男の子は勉強して地元を離れてでもより良い大学に入るのが望ましいけれど、女の子は勉強はそこそこでもいいから、とにかく地元の親元から通える大学に入ってくれればいいという空気がありました。
こうした空気の背景に何があったのかというと、女子が勉強しても、その後の人生、つまり結婚になんのメリットもないという考え方が、親世代の主流だったのだと思われます。ビリギャルの家族を見ていると、あれから長い時間が経っているのに、今になってもなお、「女子が勉強しても意味がない」という固定観念が根強く残っているのを感じます。
受験物語だけじゃないビリギャル
さやかの勉強を阻む人は父親以外にももう一人います。それはさやかの通う私立学校の教師・西村です。彼は、エスカレートで進学できる自分の大学ではなく、他大学へ進学することは好ましくないという考えのもとで、さやかの塾の先生のところにまでいって、さやかの可能性をつぶそうとします。
この映画、たくさんの人が見る映画ということで、説明的なのかもしれませんが、ちょこちょこ人の悪意も善意もストレートに、もっと言えばわかりやすく描かれ過ぎな部分はちょっと気にはなります。小学校時代にいじめにあい、母親が教師に相談しても「長いものにはまかれてください」と言われたり、高校でビリギャルがタバコを持っていたのが見つかったときも、校長と思しき人物から「君たちは人間のクズだ」「ほかの誰が吸っていたのかさえ言えば、退学は免除してあげてもいい」と言われるシーンもあります。
また、前出の担任教師は、さやかの塾講師に対し偏差値のデータを持ち出し、さやかの偏差値は慶応大学の合格可能性が高い上位2%ではなく、下位の2%にいること、上位2%になるには67万人弱を追い抜かないといけないことなどを述べた後に、ここでも教師は「少しくらい勉強したからってダメな生徒はダメ」「クズ」と言葉を荒げます。
自信を喪失させることで、可能性を信じられなくさせられているのは、さやかだけではありません。弟の龍太も野球推薦で進学した高校でレギュラーになれず挫折。父親に黙って退学して、夜の街を遊び歩くようになります。また母のあかりも、自分の母親からののしられ、自信をなくしているひとりでした。夫と龍太のことで口論になった際に「お前はさやかとまゆみの面倒だけ見ればいい」と言われ、「私は三人の母親です」と言い返しただけで、「口答えする女は嫌いだ」とまで言われてしまう母のあかり。過去に自身の親からののしられた過去を持つあかりが、こんなモラハラ夫と一緒になるというのも、なんだかやるせない。
映画のつくりが単純でメッセージが一義的なのは気にはなりますが、人の可能性や、自信を失わせることで潰す親や先生のような大人というものは、実社会にも確かに存在します(実社会では、ここまでわかりやすくはなく、曖昧に存在していたりするからたちが悪い)。もしも、ビリギャルの可能性をつぶすために、塾講師のところにまで乗り込む、悪い意味での「熱さ」を持った教師が本当にいるのなら、彼自身も相当な抑圧をどこかで感じていて、それを他人に向けているとしか思えません。誰かからの抑圧(例えば、校長の抑圧など)から自分を守るために、新たなる抑圧を再生産してしまっているのか、もとからの悪人としか考えにくい。
ただちょっと違和感を覚えるのは、さやかが合格するためには、週6日の塾通いが必要なこと、そのためにはお金がいることが塾講師から母のあかりに提案される場面です。この映画で絶対的な善人として描かれている塾講師からそう言われると、まったく疑問に感じるべきシーンには見えなくなっているのです。結局、現在の進学には、子どもに対する親の投資ありきであるととれてしまいますから、こういうシーンがあることで、観客からの疑問が起こっているのかなとも思いました。
居場所にとどまれという「抑圧」
この映画、最終的には、父親の徹が、息子の挫折や娘の努力をきっかけに自身を見つめなおし、良き父になるであろうことを想像させる結末へと向かいます。徹自身、「父親はこうあるべきもの」という思い込みに縛られていたのかもしれません。ただ、実際には、凝り固まった心がそんなにすぐに変わることはないでしょうし、息子から娘へと夢を託す対象を変えただけにも思えるシーンもある。実話であるだけに、そのあとにも人生は続くからこその、ありがちなハッピーエンドに終わる点が気になるところです。
劇中、さやかは、抑圧されていた心の開放を地元に走る新幹線に見ます。現在の日本は一極集中で地域間格差が拡大していると言われています。そこで女性がその解決役として、地元に残って結婚し、子供を産み労働力になって地域に貢献する女性は純粋で、地方創生の救世主であるとあがめられる。逆に都会に出る人はそうではない、というようなことを突き付けられることもあります。
もちろん、地元で、さまざまな形でそれぞれの幸せを見つけるのも素晴らしいことですが、だからといって都会に出ようとする女性が、望ましくないということでもないでしょう。しかも、女性が都会に出るということには、個人的な夢や希望や憧れだけでなく、雇用の問題なども関係しています。個人の夢や希望や憧れで都会に出ることが嘆かわしいことであることを、こと女性にだけ向けられることには疑問を感じます。
思っていた以上に日本にあるジェンダー観が、物語にとっての「かせ」として描かれていたこの映画ですが、さやかが新幹線に夢を託すシーンに関しては、少なくとも、女性の可能性を「とどまる」こと一つに決めて、しばりつけるという意味での抑圧はしていないんだと取れました。そういえば、母親のあかりは物語の中でずっと、居場所は一つではないとさやかに語り続けているキャラクターだったことを、後になって思い起こしました。