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「ボクサーの彼女」は変わった 『ロッキー』から40年、『クリード』のヒロイン像

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エイドリアンでありながら、ビアンカを求められる日本

女性の存在は、「ロッキーシリーズ」とは違うものになっています。ロッキーシリーズのヒロインであるエイドリアンは、ロッキーを心配するあまり、彼に闘うことをやめてほしいと願いますし、ロッキーはトレーナーから「女は脚にくる」と女を遠ざけるように言われます。

『クリード』でも、アドニスもロッキーから「女は脚にくる」と冗談めかして言われるシーンはありますが、これはロッキーファンを喜ばせるパロディ的なセリフでしょう。そうでなければ、試合の前夜にサプライズでビアンカと会わせたりしないはずです。また、ロッキーの夢をサポートする役割を担うエイドリアンとは違い、ビアンカは歌手としての自分の夢も持っているし、アドニスに怒るのは、彼が自分にウソをついていたり、自分の仕事場を混乱させられたときであって、アドニスの闘いに反対する存在ではありません。

ロッキーのときは、「女」というものは、闘いの邪魔をする存在であり、かつ闘いの傷を癒す存在でしたが、『クリード』では違いました。劇中、アドニスとビアンカが、お互いの夢のためにお互いが必要な存在である、と言っていたことに、「ロッキーシリーズ」から男女の関係性が変化していることを感じました。

『クリード』は続編が作られることが発表されています。その続編では、女性の存在がカギになるだろうとスタローンは語っているようです。きっと、ビアンカの夢とクリードの夢がぶつかったり、ビアンカの進行性難聴という病気がそこに関わってきたり、それをどう収拾していくかになるのではないかと思います。

別の映画の話になりますが、見た目はかわいらしいのに、中身はおっさんのクマを描いた『テッド』では、テッドの親友ジョンの恋人のローリーは、男のことを理解せず、女(古い、もはや思い込みレベル)の常識を男にも突きつける存在として描かれていました。あまりにも仲良しすぎるジョンとテッドを見て、「私とテッドどっちが重要なの?」と迫り、男同士の不文律に理解のないローリーは続編ではいなくなります。そして、その代わりに男同士の絆を理解し、自らも自立していて、男とか女とか関係なく付き合える女性・サマンサが新たな恋人として登場しました。

エイドリアンはさきほども書いたように、男には闘いがあるけれど、自分とこれから生まれる子どものために、またロッキー自身の体を心配して闘いを止める存在でした(そして『ロッキー・ザ・ファイナル』からいなくなりました)。『ロッキー』の時代は、30になっても嫁に行けず、ペット用品店で地道に働くちょっと社交性のない、「女として優等生ではない」エイドリアンは、兄のポーリーからすると、「行かず後家」的に見られ、それをいつも突きつけられていました。とはいえ、家のことや兄の世話はすべてエイドリアンがしていたわけで、兄にそのことでキレるシーンがあります。ロッキーの時代は、女は30になったら嫁にいっていなければならない。仕事をしていても、家事というものは女の仕事であると描かれていたわけです(ロッキーはそこまで思ってはいなさそうでしたが)。

『クリード』のビアンカは、『テッド』のサマンサと同じく、男の夢を妨げず、自らも自立していて、お互いの支えになる女性なので、きっと続編でローリーのようにあっさり別れていなくなっているということはないでしょう。男の生き方は女の生き方と同様尊重されねばならない。そして女も男も自立していないといけない。そうでない人は物語からいなくなるという描き方は、いまだ女性が、賃金格差などがあって男性と同じように自立して生きたい人でも、そううまく生きられない日本では酷にも感じます。

今の日本は、『ロッキー』の時代のように男女の役割は残ったままで、その上で『クリード』の時代だから、ビアンカのように自立して男の夢や友情にも理解がないといけない状態なのかもしれないなと。アメリカと日本で女性が置かれた状況が違うことが見えたような気がしました。

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