真面目であることは、男らしさの妨げになるのか
スタローンが40年ぶりにアカデミー賞にノミネートされたことでも話題の『クリード チャンプを継ぐ男』。ストーリーは、元世界ヘビー級王者、アポロ・クリードを父に持つアドニスが、一度も会わぬまま他界した父の影を追ってプロボクサーを目指し、しかもその師として、父のライバルであったロッキーの元を訪れるというものです。
この物語では、アドニス(クリード)とロッキーの、それぞれの闘いが描かれます。
アドニスは、父親のアポロ・クリードと愛人の間に生まれた子どもでした。父を知らずに育ち、母の死後は里親の元や施設を転々としていましたが、子どものいなかったアポロの妻、メリー・アンに引き取られ、大学を卒業して就職もしていました。でも、アドニスはここではないどこかに自分の生きる道があると感じていて、会社勤めの合間にメキシコの地下競技場でボクシングの試合に自己流で挑んでいました。そして、夢を諦めきれず、フィラデルフィアのロッキーのもとにいくのです。
アドニスとロッキーは対照的です。アドニスは、引き取ってくれたメリー・アンが金持ちで、育ちも良い。父のライバルであり、父を苦境に立たせたロッキーに対して、復讐心を持たず、むしろロッキーに父の影を感じているくらい。恋人となるビアンカからも、「大学を出た喋り方ね」と言われるシーンがあるし、仕事をしていたときも何でもそつなくできて良いポストにもつくことができていました。対して、「ロッキーシリーズ」の若かりしロッキーは、不良で貧困の中にいて、ときにはギャングのもとで借金取りをしたりもしていました。そうした境遇がハングリー精神の元にもなっていました。
アドニスを見ていると、現代の悩みは貧困から生まれるわけではなく、ロッキーの持っていなかったもの(お金、学歴、血筋など)がすべてあることが逆に枷になるのだと感じました。
アドニスの対戦相手のコンランで印象的だったのは、かつてのロッキーのような貧困からくるハングリー精神も、アドニスの父のクリードのような「ボクシングは興業であり、観客に見てもらうためには、自分はヒールだったり客寄せパンダ役を演じても構わない」というエンタメ根性も、クレバーさもあって、ロッキーとクリードの性質の両方を持ちあわせていた点です。そういう意味では、アドニスは「いい子」すぎることで、ロッキーやアポロやコンランにはあって、自分にはないものがたくさんあり、それが彼のコンプレックスになっていたのだなと思いました。本作はそのコンプレックスを真面目に描き、「真面目であることは男らしくないのか?」「悪い部分がないと男と認められないのか?」と問いかけているようにも思えます。
エイドリアンでありながら、ビアンカを求められる日本
女性の存在は、「ロッキーシリーズ」とは違うものになっています。ロッキーシリーズのヒロインであるエイドリアンは、ロッキーを心配するあまり、彼に闘うことをやめてほしいと願いますし、ロッキーはトレーナーから「女は脚にくる」と女を遠ざけるように言われます。
『クリード』でも、アドニスもロッキーから「女は脚にくる」と冗談めかして言われるシーンはありますが、これはロッキーファンを喜ばせるパロディ的なセリフでしょう。そうでなければ、試合の前夜にサプライズでビアンカと会わせたりしないはずです。また、ロッキーの夢をサポートする役割を担うエイドリアンとは違い、ビアンカは歌手としての自分の夢も持っているし、アドニスに怒るのは、彼が自分にウソをついていたり、自分の仕事場を混乱させられたときであって、アドニスの闘いに反対する存在ではありません。
ロッキーのときは、「女」というものは、闘いの邪魔をする存在であり、かつ闘いの傷を癒す存在でしたが、『クリード』では違いました。劇中、アドニスとビアンカが、お互いの夢のためにお互いが必要な存在である、と言っていたことに、「ロッキーシリーズ」から男女の関係性が変化していることを感じました。
『クリード』は続編が作られることが発表されています。その続編では、女性の存在がカギになるだろうとスタローンは語っているようです。きっと、ビアンカの夢とクリードの夢がぶつかったり、ビアンカの進行性難聴という病気がそこに関わってきたり、それをどう収拾していくかになるのではないかと思います。
別の映画の話になりますが、見た目はかわいらしいのに、中身はおっさんのクマを描いた『テッド』では、テッドの親友ジョンの恋人のローリーは、男のことを理解せず、女(古い、もはや思い込みレベル)の常識を男にも突きつける存在として描かれていました。あまりにも仲良しすぎるジョンとテッドを見て、「私とテッドどっちが重要なの?」と迫り、男同士の不文律に理解のないローリーは続編ではいなくなります。そして、その代わりに男同士の絆を理解し、自らも自立していて、男とか女とか関係なく付き合える女性・サマンサが新たな恋人として登場しました。
エイドリアンはさきほども書いたように、男には闘いがあるけれど、自分とこれから生まれる子どものために、またロッキー自身の体を心配して闘いを止める存在でした(そして『ロッキー・ザ・ファイナル』からいなくなりました)。『ロッキー』の時代は、30になっても嫁に行けず、ペット用品店で地道に働くちょっと社交性のない、「女として優等生ではない」エイドリアンは、兄のポーリーからすると、「行かず後家」的に見られ、それをいつも突きつけられていました。とはいえ、家のことや兄の世話はすべてエイドリアンがしていたわけで、兄にそのことでキレるシーンがあります。ロッキーの時代は、女は30になったら嫁にいっていなければならない。仕事をしていても、家事というものは女の仕事であると描かれていたわけです(ロッキーはそこまで思ってはいなさそうでしたが)。
『クリード』のビアンカは、『テッド』のサマンサと同じく、男の夢を妨げず、自らも自立していて、お互いの支えになる女性なので、きっと続編でローリーのようにあっさり別れていなくなっているということはないでしょう。男の生き方は女の生き方と同様尊重されねばならない。そして女も男も自立していないといけない。そうでない人は物語からいなくなるという描き方は、いまだ女性が、賃金格差などがあって男性と同じように自立して生きたい人でも、そううまく生きられない日本では酷にも感じます。
今の日本は、『ロッキー』の時代のように男女の役割は残ったままで、その上で『クリード』の時代だから、ビアンカのように自立して男の夢や友情にも理解がないといけない状態なのかもしれないなと。アメリカと日本で女性が置かれた状況が違うことが見えたような気がしました。
スタローンはクーグラー監督へ夢を継ぐ
それにしても、かつてはアドニスのように夢に向かって進む青年であり、物語の主人公であったロッキーが、すっかりその立場を退いていたのは衝撃です。年齢を経た男性は、後継者を育てるということがアイデンティティとして残ると思いますが、このコラムで取り上げた『マイ・インターン』のロバート・デ・ニーロにしても、昨年話題となった『キングスマン』のベテランスパイを演じたコリン・ファースにしても、若い世代を育てることで、自身の存在価値を確かめることができていたと思います。『キングスマン』のセリフに「マナーが紳士を作るんだ」というものがありますが、あのセリフは、『マイ・インターン』や『クリード』にも共通している気がしますし、そしてあのセリフは、人に教えているようでいて、実は自分に言い聞かせているんじゃないのかとも思うのです。つまり、後進に道を委ねるというマナーによって、自分を紳士たらしめていると実感しているのではないかと。
『クリード』の続編は、17年11月に公開されると報道されています。スタローン自身も構想に前向きだそうで、「ロッキーシリーズ」にいつも登場する、あのフィラデルフィア美術館のロッキー・ステップと呼ばれる階段を、年老いたロッキーはくたくたになりながら上るけれど、本当のスタローンはまだまだいけるという感じですね。
しかも、今回のクリードの監督、ライアン・クーグラーは、2013年に『フルートベール駅で』でカンヌ映画祭でもある視点部門フューチャーアワードを受賞して話題の監督ですが、スタローンが彼に会ったのはそれより前で、まだ無名といっていい頃だったとか。スタローンは、クーグラーの『ロッキー』の続編に対するアイデアを聞いて、『クリード』を製作しようと決めたとのこと。スタローン自身も、映画の中のロッキーがアドニスを見つけたように、クーグラーという後継者を見つけて、再び自分を奮い立たせ、そして委ねることが出来て完成したのが、この『クリード』だったというわけですね。