社会

「代々木上原の外国人/ゲイは質がいい」 ひとに優劣をつけ、悪ノリで誤魔化すことのおぞましさ

【この記事のキーワード】

無邪気さで誤魔化された暴力

この言葉を吐いたのはふちがみ氏である。辛口と修飾されているくらいだから、この上原紹介コラムにおける氏の役割は明確で、記事そのものの悪ノリを肯定するためのご意見番として登板されている。

記事を読んでいると、ふちがみ氏の発言のなかには「代々木上原に住む優越感」がうかがえる。例えば、ライターとふちがみ氏の待ち合わせ場所である、昨年オープンしたばかりのカフェを「浮ついた感じの店」と評し、セレクトされた食材を指して「アホな女子がすぐに飛びつきそう」と罵り、「周りを見てみなよ。ここにいるのは全員よそ者だね」と来客を外見で断罪しているのだから。しかし、こういったふちがみ氏の発言は持論と推測の域を出ない、直感的な「感想」に過ぎない。

この記事では「オシャレ」「品の良さ」「勝ち組感」といった代々木上原に対するイメージへの対抗勢力としてふちがみ氏が置かれながらも、結論としては住民側(ふちがみ氏)の意見を盾に上原を持ち上げるという構図になっており、むしろ外部からの評価を徹底的に排除するような特権意識がうかがえる、他愛もない与太話として読める。

しかし、上記で引用した「質のいい外国人/ゲイ」という表現は、たとえ他愛のない与太話であったとしても冗談だと済ませられない。この表現には「質の悪い外国人/ゲイ」と評される存在が貼り付いているのだから。

実際、

「中野に住んでるゲイとはなんか違う。NYでもチェルシーに住んでるゲイは質がいいのと同じで、上原のゲイは質がいい」

と、ふちがみ氏は比較し、優劣を断じている。上原に住むゲイ対して中野に住むゲイはセンスが悪い、とでも言いたいのだろうか。

どの立場で言っているのか、他人を物のように扱っているのにもかかわらず、この記事から立ち上がってくる気配はあくまでも無邪気で、差別に対して無自覚で、だからこそ暴力的な浅慮だと言える。

個人が選民思想を持つことは自由だとしても…

近ごろ、「LGBT」という、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーそれぞれの頭文字を取り、性的マイノリティを指す呼称がメディアでもよく見られるようになった。

「LGBT」とひとくくりにされているが、LGBは性的指向を基に、Tはジェンダーアイデンティティ=性自認を基にした呼称である。それぞれ異なる立場であり、抱えている問題は異なる。また、インターセックス(性分化疾患:I)や、ここで詳しく説明する字幅はないのだけど、Q=クィア、クエスチョニングといった立場にある人々も存在する。「LGBT」といってもその内実は多様で、さらに「LGBT」だけでは説明し切れない多様な性のあり方が存在するのだ。

そして、ふちがみ氏が吐いたような言葉は、わたしの周りの性的マイノリティの当事者のあいだでも耳にした経験があるし、外国人のなかでも同国籍の人間を貶める人はいる。つまり、マイノリティとされる集団のなかでも分断があり、個々に違いがあって、優劣を付け合う人々もいる、ということだ。単純に「外国人/ゲイ」のなかでも、上原に住む者もいれば中野に住む者もいるし、東京にいる者も地方都市に住む者もおり、様々な人間が多種多様な背景を抱えており、それぞれの生き方をしているという当然のことが見失なわれがちだ。

(わたしには不快なのだけど)個人の生活で選民思想的な意識を持つことは自由だし、個人的な会話での侮蔑的な軽口を制限する権利は誰にもなく、どうしようもできない。だが、メディアに掲載される影響力を鑑みると、個人的な好き嫌いを語ったり、個人同士のやりとりのなかで優劣を付け合うのとはわけがちがい、問題だと言える。

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