「倫理」は時代によって変わっている
私は「倫理」という言葉を使いながら自分の意見を主張する人には、正直ものすごく嫌気が差します。というのもそうした人の中には、個人的なものである感情や理論を無理やり「倫理」や「社会規範」などの言葉に言い換えているように感じられるからです。それは、「倫理は人として必ず守らなくてはならない、破る人間は絶対悪だ」というメッセージの込められた同調圧力を生み出し、反論する相手の口を封じようとしているようにしか見えません。
先ほども述べましたが、ここでいう「倫理」は、学術的定義のない、日常会話の中で話される「倫理」です。また私は、「研究倫理」「医療倫理」などのガイドラインは必要だと考えています。
そもそも、「倫理」って何なのでしょう? とりあえず辞典で調べてみました。広辞苑では、「倫理」という言葉は、“(1)人倫の道(人倫とは人と人との秩序関係)、(2)実際道徳の規範となる原理”と説明されています。うーん……いまいち呑み込めません。じゃあ道徳って何だろう、と調べると、“(1)人の踏み行うべき道、(2)ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として一般的に承認されている規範の総体”と出てきます。なるほど。“ある社会における、人の行為の善悪を判断する基準(=道徳)を定めるものが「倫理」である”と言えそうです。人の行為の善悪を判断する基準は、国や文化、時代によって大きく変わります。つまり、倫理も社会と共に変わっていく、流動的なものと言えます。例えば携帯電話の普及によって、待ち合わせの際に多少の遅刻が許されるようになりました。技術が生まれたことで、これまで「倫理」とされていたものが変わった例だと思います。
現代の日本における「倫理」って何なのでしょうか? 多様性が尊重されるようになった今、「倫理」という言葉に込める思いは、人それぞれ異なるのではないでしょうか。現代の日本においては“「倫理」=個人個人が抱く善悪の基準”と私は考えています。そんな曖昧な言葉を議論の場に持っていくと、ややこしいことになるのは明白です。それぞれ、善悪の基準は異なりますから。
曖昧な言葉であるにもかかわらず、「倫理」からは独特の強い同調圧力が感じられます。“もし「倫理」を破ったら、社会から「絶対悪」「人としておかしい」と見なされ、多くの敵意に晒されるかもしれない”という恐怖を喚起させます。村八分のような機能が「倫理」には備わっているように思えます。そういった言葉を「倫理的に考えて~」という風に自分の主張にポン、と簡単に加えてしまうのは、非常に暴力的です。
個人的な感情を「倫理」で誤魔化してはいけない
なぜ「倫理」という言葉が使われるのでしょうか? 私は、自分の考えに論理的欠陥があるとき、人は「倫理」という言葉に逃げるのだと思います。論理的には説明できない嫌悪感や不安感を、論理性が重視される議論の場で表現する言葉として「倫理」はもってこいなのでしょう。個人的な感情を、あたかもパブリックな思想であるかのように見せることができてしまう、便利な言葉なのです。
議論の場においては、「論理」と「感情」は分けて考えなくてはいけないと思います。今自分が主張しているのは、自分の「論理」の部分なのか、「感情」の部分なのか、主張する側も受け止める側も認識しておかないと訳が分からなくなり議論が泥沼化していくだけです。例えば、“生殖医療は倫理的に許されない”と言う人を見かけますが、こういう人は自身が抱く“生殖医療という未知なものに対する不安感”という「感情」を「論理」と混同しているような気がします。不安感があるのならば、“不安だ”と言えば良いのですし、なぜ「許されない」のか、その理由を論理的に説明すればいい。“生殖医療は倫理的に問題ない”と言う人も同様です。
「人として~」「~は自然の摂理に反する」などの言葉も「倫理」と同様、個人的な感情をパブリックな思想に見せかけてしまうややこしい言葉です。
「倫理」という言葉と共に何かを主張されたとき、私は“あなたの考える「倫理」って、何ですか? 明示して下さい”と言います。そうすると大体、“倫理は倫理。そのくらい人として理解しておかないとダメでしょう”といった感じの言葉が返ってきます。こういう人とはもう、それ以上議論や話し合いをする気が起きません。
(北原窓香)
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