
武田砂鉄/論男時評(月刊更新)
本サイトを読まれる方が日頃手にすることがないであろうオヤジ雑誌群が、いかに「男のプライド」を増長し続けているかを、その時々の記事から引っ張り出して定点観測していく本連載。
これまでの連載回で、意外にも俎上に載せてこなかったのが曽野綾子の発言。彼女の暴論垂れ流しエッセイが、オヤジ雑誌のプライド保持に有効活用されて久しい。ネットを回遊している人ならば、彼女の乱暴な言葉を指摘する声に何度も接してきたことだろう。それでもまだオヤジ雑誌は「ここはやっぱり曽野先生に言ってもらおう」と申し出ることを止めない。
最新の素材は、「週刊ポスト」(2016年2月12日号/小学館)に寄せられた「高齢者は『適当な時に死ぬ義務』を忘れてしまっていませんか?」だ。このタイトルおよび記事内容に苛立った多くの読者が「アナタにそっくりそのままお返しするよ!」という声を投げていたが、気の利いた返し方だとは思えない。「高齢者は適当な時に死ぬ義務などない」と、根っこから問い質したいからである。つまり、曽野だって適当な時に死ぬ義務があるとは思わない。誰だってそう簡単に死ぬべきではない。選択肢を奪ってはいけない。
ところで曽野は、自分自身の直言が、表紙でどのような記事と隣り合っているかご存知なのだろうか。すぐ隣にあるのは「死ぬまでSEX 『金髪エロ動画』大研究 乳房が違う!アソコが違う!愛撫が違う!フェラが違う!……(下記略/あと6つほど「○○が違う!」が続く)」である。死ぬ義務を忘れずに死ぬまでSEXに励む、とはいかなる状態なのか、こちらが若輩者だからなのだろうが、なかなか見えてこない。切羽詰まっていることだけはわかる。
「“下流老人”を苛めているなんて、とんでもない。人は働ける限り働くというのが健全なんです。“お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に”という『桃太郎』の始まりの部分がそれを示しているじゃないですか」
曽野綾子(作家)/「週刊ポスト」(2016年2月12日号)
『働きたくない者は、食べてはならない』(ワック)という著書までお持ちの曽野。彼女の著作を、律儀に拝読してきた身としては、今回の記事に記されている見解などまったく目新しくない。今の老人たちがあらゆる権利を行使し、それらに依存しながらいつまでも生き続けることに対しての違和感を書き連ね、それらを自身がアフリカで見聞きした貧困の人々などと照らしながら、「甘えている」という結論に持ちこむのは曽野の手癖である。今回の記事では、「権利を『求め倒し』、医療を『使い倒し』、他人を『頼り倒す』年寄りは浅ましい」(見出しより)とし、このような「~倒す」という表現を用いるような状況にある現在を「薄汚い表現」「自分の美学がない」と言い切っている。
曽野のような弁舌はいかなる事態を生むか。たとえば、高齢者世帯の受給が約半数を占める生活保護への誤解。生活保護基準以下の世帯で、実際に生活保護を受給している世帯数の割合を「補捉率」と呼ぶが、日本の補捉率は諸外国と比べてもいつまでも低いままだ。生活保護に向かう、「ラクして生きようってのか」的なイメージや「税金に頼るなんて恥」的なスティグマがこの低さを維持させてしまう。彼女のエッセイは常に自分の記憶、自分の周囲の人から得たエピソードから導き出されるが、書き進めていくうちに規模が膨らんで、いつの間にか対象が「最近の老人」「最近の若者」「最近の女性」と大きなスケールに至っていることが多い。
書いているエッセイを先に進めるためにその飛躍が便利なのは分かるが、「最近の~」を「使い倒す」ことで、貴方の視界に入らない人たちが、踏ん張ることができなくなるかもしれない。曽野の例え話をそのまま使わせてもらうと、お爺さんが山へ柴刈りに行くだけでは、お婆さんが川へ洗濯に行くだけでは、到底、生活を維持することができなくなってきたことを問題視しているのが、昨年来の「下流老人」を巡る言説なのである。