だが雑誌読者としてカウントしない年収700万円以下の人たちを無視するかのように「Wedge」は「下流老人」ブームについて釘を刺していく。『下流老人』や『老後破産』での分析は「『○○さん(×歳)はこうして転落した……』とミクロの事象を積み重ねる」特徴を持ち、「足で稼ぐ取材活動は敬意に値するものだ。しかし、政策変更などの社会の変革を訴えるならば、ミクロの発掘とマクロの往復が欠かせない」との忠告。うん、それはその通りだ。でも、ミクロに気付かない振りをする人がいるから、議論が活性化しないのではないか。今年の1月半ばの参院予算委員会で、経済格差が広がっていることを野党から指摘された安倍首相は、「日本は貧困かといえば、決してそんなことはない。日本は世界の標準でみて、かなり裕福な国だ」と述べている。OECDの調査(2012年)で「相対的貧困率」が約16%になったことなどは、恣意的に頭から排除されているのだろうか。だからこそ、学者は、ジャーナリストは、ミクロの事例を追う。そして、その内情を伝える。「往復」を作り出せるのはミクロの提示があってこそではないのか。
特集タイトルを「『下流老人』のウソ」とするほど内容は攻撃的ではない。しかし、世の流れから弾かれようとしている「ミクロ」を発掘する姿勢は、グラフから年収700万円未満を除外してしまう雑誌からは見えてこない。曽野綾子はアフリカでの事例を具材にして、日本の若者や女性の傲慢さを身勝手に造型して突いてくる。「働きたくない者は、食べてはならない」という彼女の発想と、「ミクロだけではなくマクロも見よ」という指摘は、合体するととっても大きな暴力になりかねない。ミクロの声が堂々と剥奪される。「えー、でも、ホントは働けばどうにかなるんでしょー、仕事選んじゃってんじゃないのー」、という声を浴びて、その窮状への無理解が深まってしまう。がさつな言い方になるが、上流老人はミクロの叫びを踏みつぶしすぎではないか。上流雑誌も然り。だからやっぱり、曽野が「働きたくない者は、食べてはならない」と言い続ける限り、私は「働いていない者だって、食べていい」と言い続けることになる。