「母親」が「人間」である以上。植本一子『かなわない』書評

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 彼女は恋をしたのだった。それは傍目にも明らかだったのだと思う。なにより、「好きな人」と思しき男性と出会ってからの一子さんの日記は、それ以前とはっきり色が変わっていた。彼女は外に出るようになって、みるみるうちに変わっていくのだ。

1月19日土曜日
友人に話を聞いてもらい大泣き。
『子どもを産んだら「お母さん」になれるんだと思ったらそうじゃなかった。(中略)お母さんであり女であり少女であり私なのだった。「お母さん」だけになれたら、こんなに苦しい思いをすることもなかったのだろう。私はいろんなものに未練がある』

2月10日日曜日
『生活にメリハリがついて娘達に前より少し優しく出来る様になった気もする』
と書いた日の夜に、イベントDJ仕事に出た石田さんに「育児が苦痛でたまりません」とメールをし、「小学校に上がるまで辛抱してください」と返信されている。

2月11日月曜日・祝日
夕食の準備をして外出し、深夜に帰宅。石田さんと娘たちが寝静まった家は、散らかっている。
『それでもやっぱり外に出るのはやめられない。私が私でいるために』

2月20日水曜日
一子さんのフォトスタジオ「天然スタジオ」が下北沢にオープン。一日中、外で仕事関係の人たちや友人と会い、充実していた。21時半すぎに帰宅し、もう寝ているだろうと寝室のふすまをあけたら二人の娘は目をあけていて石田さんだけが寝ていた。
『なんだか一気にげんなりして、ふすまをしめた。この壁のすぐ向こう側に私の現実があって、少し絶望した』

3月17日日曜日
石田さんは仕事で、夕方過ぎまで一子さんが娘達の子守り。
『とにかく時間が流れるのが遅い。自分のことは一切出来ない。もう慣れてしまったが、日曜日の唯一の子どもたちとの時間さえ疎ましく思う自分は、母親失格と思われても仕方ないだろう』

夜、ライブへ行くことを石田さんに「最近行き過ぎだよ」と咎められる。
『最近はまた、自分が子どもに戻った様に感じる。好きに生きたいのに、そうはいかない。家庭と、子どもと。また、家族。一人で気ままに動いていても、いつも背後霊のようにつきまとう、家族、という存在』

3月22日金曜日
石田さんと口論
『ライブに行くのを怒っているんじゃなくて、夜中の2時とか3時になっても家に帰って来ないのがどうかと思うのだと』

3月24日日曜日
金曜から開いている自身の個展で、いろんな人に会う。仕事は疲れるが、
『家で子どもたちと長時間一緒にいるより遥かに遥かに遥かに気楽』

 この時期、彼女は立ち止まることができないくらい、全力で走っている。ブレーキをかけたくない。自由にやりたいようにやらせてほしい。その気持ちは痛いほどよくわかる。子供を産み育てることに専念し「他のことは全部やらない!」と決めて家にこもったとしても、雑念はわいてくる、焦りを感じてしまう、他人が幸せそうに見えて、自分だけが孤独な場所に監禁されているように感じる。まさか自分がそんなふうに孤独を味わうとは思いもしなかったのに。愛する男性との子を産み育てることに幸福感以外の感情が伴うなんて、当人が一番びっくりし、自分自身に失望する。

 そんな疾走の13年5月にブログ日記の更新は途絶える。そして翌14年1月1日の再開一行目は、

『二日ぶりにまともに家に帰宅』。

 空白の半年間に何があったか。ものすごく雑に省略してしまえば、植本さんに「好きな人」ができて(世間が名づけるところの“不倫”)、石田さんに離婚を再三申し込んだが、結局、しなかった。石田さんに三回目の離婚を申し込んだとき、一子さんは泣きながら「好きな人とどうこうなろうとも思っていない。とにかく虚構の家族像に疲れた。一人の人間としてやり直したい。理想の家族像に近づけなかった」と伝える。彼女の理想の家族像とは、「結婚したら好きな人は出来てはいけない、出来ないものだと思っていた。そして、夫婦はいつまでも仲良く、何でも話し合える仲」だ。でも彼女は好きな人が出来てしまった。その人と、付き合った。夫婦仲は良いとは言えなくなった。

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