「母親」が「人間」である以上。植本一子『かなわない』書評

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「放棄しない」

 その後、14年の日記では、彼女が「先生」と慕う漫画家・安田弘之氏とのメールのやりとりで指摘された事柄が大量に綴られていく。

 一子さんは自身が描く「理想のお母さん像」に当てはまる人間になりたかった。なりたいのに、なれなくて、苦しかった。

『誰よりも良い母親でありたいですし、優しくしたいですし、自分がされて嫌だったことはしないで、して欲しかったことはしてあげたい』

 でもできないのだった。「先生」の分析によれば、彼女は自分自身の幼児性が全く満たされていない状態なのだという。心の中に幼児期に愛情を求めるも与えられなかった子どものままの彼女がいて、出産によって子どもが子どもを育てることになってしまったため、強い幼児性と、良い母親でありたい、という感情がぶつかりあっている。そのうえ彼女は、自分が大嫌いで自己肯定感が低く、誰かにまるごと依存したい。誰かに幸せにしてほしい、助けてほしいと願っている。これがすべての元凶だ、と、「先生」は指摘し続ける。あらためて読み返せば、「先生」と出会う前から、一子さんは母への感謝と恨みの複雑な感情を時々、日記に綴っていた。不安定な気持ちを抱えたまま、一子さんは「先生」とやりとりを続け、そして14年の日記は6月で終わっている。

 自らの理想上の母親という役割や、現実の家族という居場所に、とてつもない閉塞感を覚えていた一子さんにとって、仕事は希望であり光だった。その仕事を通じて得た新しい恋もまた、光だったのだと思う。けれど現実に目を背けて、光の見えるほうへ走ってはいけないこともわかっていた。好きな人との関係も、決して幸福に満ちた未来へ向かうものではなかった。最終的に彼女はこれまで築き上げ、同時に自らを縛り付けてきたものを「放棄しない」と決めるに至る。自分の弱さに向き合い、家族に向き合う。

 私たちは「結婚」に憧れるとき、綺麗な薄いベールにくるまれた、温かく柔らかい安心安全な「家族」をイメージしている。一子さんもきっとそうだった。それが理想の家族像になり、彼女自身を苦しめることになっていた。『かなわない』は、批判を恐れず率直な感情を書き記した壮絶な作品で、だからこそ淡々とした「日記」にもかかわらず圧倒的にドラマティックなものになってしまったのだと思う。

 私はこの本を、2月のある週末、藤本美貴が登壇した子育てにまつわるトークイベントを観覧し、帰宅してから子供の隣で一気読みした。藤本美貴が笑顔で語る「旦那さんとは今もラブラブ」「子供たちは可愛くて仕方ない」といった心温まるエピソード群との落差に頭がぐわんぐわんする。高低差ありすぎて耳キーンするわ、というやつだ。藤本美貴もタレントというイメージ商売の仕事だから言わないだけで、内心にはいろいろと抱えるものがあったりもするのだろうか。

 最後に、一子さんが、というか「母親」がこうした本を出版することに対して、「子供がかわいそうだ」という批判が絶対にあるだろう。あっていい。でも読んでほしいと思う。既婚でも未婚でも子持ちでも子なしでも処女でも童貞でも男でも女でも都会の人も田舎の人も。とくに母親が母親らしくないことに対して憤りを覚える人や、母親を人外のものとして祀り上げてしまう人、自分の母親を嫌いな人などに知ってほしいと私は思う。母親が人間である以上、その役割から逸脱してしまうこともあると。それはどのようにして起こるのか、ひとつのケースにすぎないとしても、知る機会としてほしい。

 2016年2月現在、長女は7歳、次女は5歳になっているはずだ。この本が自費出版のみならずこうして世の中に出された以上、いずれ2人の娘たちもここにある「母の物語」を読む日が来るだろう。子供たちも、自らの幼児性が満たされずに苦しむかもしれない。でも、それもまた、別の物語だ。

(下戸山うさこ)

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