近年も、その著作の文庫化や新装版の刊行が相次ぐ、昭和の大女優でありエッセイストの高峰秀子(1924-2010)に、『私のインタヴュー』という一冊があります。この本も2012年に新装版が新潮社から、2015年に文庫版が河出書房新社から出たばかりです。
『私のインタヴュー』は、もともと雑誌『婦人公論』の1957年1月号~12月号で連載されたもので、翌年に単行本として中央公論社から刊行されました。
女優としての高峰は、1950年代半ばに代表作となる作品を残しています(1955年公開の『浮雲』 など)。名女優との評価も得た「スター」である高峰が、その数年後に出すことになるこの本は、いつもインタヴューされる側である女優が、インタヴューする側に回るという企画ですが、その肝は、彼女自身が毎回選んだという相手の人選にあります。『私のインタヴュー』は、高峰がさまざまな職業の一般の女性たちに話を聞くというものでした。
本記事では、その時代を代表する女優によってインタヴューされるという特異な形で残された、1950年代の働く女性たちの声に触れることができるこの本について紹介した上で、その中の一つのインタヴューから知ることができる、1950年代という、戦後復興期から高度成長期に入っていく時代の、日本の女性や家族が置かれていたある状況について取り上げてみようと思います。
「特別」な女優であることを感じさせない高峰の目線
『私のインタヴュー』では、先に述べたように、さまざまな職業の女性たちがインタヴューされています。登場順に挙げてみれば、広島で原爆に被曝し、後にアメリカでホームステイをしながらケロイド治療を受けた女性(「原爆乙女」と呼ばれています)。芸者さん。生き別れた親と子を再会させるための「親探し運動」で再会した親子。産児調節運動者。女中さん同士の交流のための、日本初のサークル「希交会」に参加している女中さんたち。「灯台守」と呼ばれる、併設されたり近くに建てられた家に暮らしながら、灯台を維持管理する人たち。街の美容師さん。撮影所の裏方さん(フィルムエディター、衣装屋さん、結髪部の人。この回のみ編集部による人選)。外車、化粧品、映画のセールスウーマン。サーカスの女性たち。職業安定所で日雇手帖を得て簡易公共事業で働く「ニコヨン」さん。医師や音楽家の、日本に暮らす外国の女性たち。
このように多種多様な仕事を持つ人々に高峰は、どのようなきっかけでその仕事についたか、そして何よりその仕事の実際についてじっくりと、また結婚についてどう考えるか、これからどうしていきたいか、など、率直に小さな問いを重ねていきます。
ここに選ばれた人たちの仕事は、どちらかというと世間からステレオタイプで見られ、時にネガティブなイメージを持たれていたものが多いように思われます。
それに対して高峰は、その仕事の今、昔を尋ねたりしながら、本人の声で語られる実際を聞き出していきます。自分自身の、女優という仕事の、表には見えない大変さや、複雑な生い立ちについてさらっと明かしたりしながら、話を引き出していくのです。かといって、高峰はそれぞれの仕事について、特別な、素晴しいものだと言い立てるようなことはありません。それは、彼女自身の女優という仕事への捉え方でもありました。そりゃあ満足を得られるような瞬間が少しはあるにしても、生きてくためにやる、様々な苦労のあるもの、という感じ。このような考え方が、この本での、大女優と一般人というような構図を感じさせない、同じ目線からの率直なやりとりを可能にしたのでしょう。
高峰の質問や発言は、そのあちこちで聡明さを感じさせ、読んでいで快いのですが、「特別」というわけでもなく仕事を持った、60年ほど前に生きた女性同士の「普通」のやりとりを読むことができるところにこそ、この本の貴重さはあるように思います。(もちろん読者は、高峰が「特別(な女優)」だと忘れることはなく、そのギャップを彼女の魅力として体験するわけですが)。