連載

隠れたるレズビアンと生殖~『わたしを離さないで』

【この記事のキーワード】

 こう考えると、この小説の世界では、エミリ先生やマダムは実は生徒たちと共通点を有していたことが明らかになります。生徒たちは、自分はクローンで保護官は「普通の人」だと考えていますが、実はマダムとエミリ先生もレズビアンであり、子どもを生んだり、育てたりすることを社会的に禁止されているようなのです(現実に我々が生きている社会では同性愛者も養子や連れ子などいろいろな形で子どもを育てていますが、この社会でのクローンの扱いを見ているかぎり、そうした選択肢があるのかは疑わしく思えます)。この点においてふたりはクローンであるキャシーやトミー、ルース同様、社会的偏見により「普通の人」ではないとされる可能性が高い人間なのです。キャシーによると、エミリ先生はヘールシャム時代、子どもたちに対して「特別の存在」 (訳書p. 70、原書p. 43)であるから振る舞いに気をつけねばならないと説明していたということですが、この抑圧はおそらく子どもたちだけではなく、同性愛者であるエミリ先生とマダムにものしかかるものなのでしょう。

 第22章では、子どもを持てなかった母としてのエミリ先生とマダムの性質が明らかになります。エミリ先生は最後にキャシーやトミーと話す場面で、自分たちのことをクローンの子どもたちの象徴的な母として語っているように見えます。エミリ先生は「わたしたちの保護がなかったら、いまのあなた方はありません」(訳書p. 409、原書p. 263)と述べ、血のつながらない子どもたちを保護する存在としての自分を誇示します。さらにキャシーはその後にマダムと話した際、ヘールシャム時代に自分が‘Never Let Me Go’という曲を聴きながら赤ん坊のように枕を抱いて踊っているのを見てマダムが泣いてしまったという思い出を引きあいに出し、これは‘Oh, baby, baby. Never let me go…’という歌詞が悲しかったからではないのか、ということを言います(訳書pp. 414-415、原書p. 266)。子ども時代のキャシーのこの歌の解釈は ‘baby’を通常、想定される恋人に対する呼びかけではなく文字通り赤ん坊としてとるもので、キャシーの想像ではこの歌は妊娠できないと言われていた女性にやっと赤ん坊(baby)ができて、その子と引き離されることを不安に思っているという内容です。キャシーはマダムが自分のそうした解釈を読み取って泣いたのではないか、とマダムに問いかけます。マダムは否定しますが、この否定にもかかわらず、この場面においてはレズビアンであるマダムと、クローンであるキャシー双方の生殖の不可能性が強調されているように見えます。

 『わたしを離さないで』においては、社会的抑圧のせいで生殖や子育てを否定された存在としてのクローンと同性愛者が並んで描かれているように思います。同性愛者であるマダムとエミリ先生の秘密主義からして、この世界にはおそらくはっきり描かれている以上の差別や抑圧があるのでしょう。生殖を否定されたレズビアンのカップルがクローンの子どもたちとの擬似親子関係を作ろうとする、という展開は少々問題含みで、これをレズビアンの女性をステレオタイプ的に単純化していると読み取るか、同性愛者に加えられる重たい社会的抑圧を象徴的に描いていると考えるかは議論があるところでしょう。皆さんはどちらの解釈をとりますか? カズオ・イシグロの世界は読めば読むほど謎が深まる世界でもありますので、よかったらもう一度この小説を読んでご自分で考えてみてくださいね。

1 2 3

「いいね!」「フォロー」をクリックすると、SNSのタイムラインで最新記事が確認できます。