サンキュータツオさんと、春日太一さんの『俺たちのBL論』(河出書房新社)を読んでいたら、「『BL』というのは、『第一次原作に男性同士の恋愛が描かれているもの』。『やおい』というのは、『第一次原作には描かれていないものの、キャラクター同士の恋愛関係を読み込む精神構造や創作活動』」だと説明されていました。
この部分を読んで、私がこれまでmessyで取り上げてきた作品にも、厳密にははっきりと分けることはできないのかもしれないけれど、「ジェンダーが意識的に描かれているもの」と、「意識的にはジェンダーが描かれていないけれど、その構造を読みとれるもの」の二通りがあるのではないかと思いました。
例えば以前取り上げた『ビリギャル』には、主題にジェンダーがあるわけではないけれど、女子に教育にお金はかけなくてよい、それぞれの居場所で幸せになれればよいという窮屈さを個人的に感じました。ハン・トンヒョンさんとの対談で取り上げた『マッドマックス 怒りのデスロード』は、『ヴァギナ・モノローグス』の作者で、アフリカのコンゴでレイプ問題に苦しむ女性たちのための活動をした経験があるフェミニストの劇作家イブ・エンスラーがコンサルティングをしたということを考えても、ジェンダー、フェミニズムを念頭において描いたと言っていいでしょう(もちろん、その情報がなくとも、映画から直接感じられるわけですが)。
・「アイドルを消費する」日本に、『マッドマックス』が投下したもの
・恋愛関係でなくても男女は協力できる 「当たり前」を描いた『マッドマックス』が賞賛される皮肉
ただ、今回取り上げるクェンティン・タランティーノの『ヘイトフル・エイト』は、「ジェンダーが意識的に描かれているもの」と「意識的にはジェンダーが描かれていないけれど、その構造を読みとれるもの」のどっちかと考えると、なかなか難しいものがあります。
希望のない「密室の戦争」
この映画は、南北戦争の10年後のアメリカ西部のワイオミング州が舞台になっています。賞金首のデイジー・ドメルグを捕え、吹雪の中、処刑執行人のいるレッドロックへと向かう賞金稼ぎのジョン・ルース。その道中で同じくレッドロックを目指す、黒人で連邦軍あがりの賞金稼ぎマーキス・ウォーレン、元南軍ゲリラで自称・保安官のクリス・マニックスが馬車に乗りあうことになります。馬車は迫り来る猛吹雪をやり過ごすため、途中にある紳士服店「ミニーの店」に一時、避難することになります。
店にミニーは不在で、その代わりに留守番をしているというメキシコ人のボブ、そしてルースたちと同様、吹雪を避けるために立ち寄った自称・絞首刑執行人のオズワルド・モブレー、老齢の南軍将軍サンフォード・スミサーズ、カウボーイのジョー・ゲージがいました。この8人が吹雪の晩に一堂に会したことから、さまざまな出来事が巻き起こります。
ミニーの店に集まったのは、連邦軍の黒人、南軍の白人、メキシコ人、賞金のかかった女性など、さまざまな立場、属性の人々です。そして自称・絞首刑執行人のオズワルドが、暖炉の前を南部、バーの周りを北部と、ミニーの店をアメリカにたとえたことで、それぞれの登場人物が、その属性を代表する人物だとして見られるようになります。この配置が決まって以降、南軍と白人と、連邦軍の黒人の憎悪が膨れ上がり、人々は殺し合いを始めます。
実は、殺し合いが始まるまでは、緊張関係はあるものの割と牧歌的な空気がところどころにあります。人は立場が違っても、ちょっとした会話や視線で通じ合ったりするものだし、そんな瞬間があれば、殺し合いの中でも、情を交わすことができる、というのが初期のタランティーノ作品の楽しみであり、タランティーノが好んできた香港映画や日本の任侠映画だったと思います。ところがこの映画では、そうした牧歌的な関係にはなんの意味もなかった、と描きます。だから、ウォーレンとドメルグのあの視線のやりとりは? とか、ドメルグとルースがちょっと仲よさそうにスープを飲んでいたのは何だったの? と混乱してしまう。この映画で描かれる殺し合いは、立場の違いが生む憎悪によるもので、過去にちょっとほのぼのしたエピソードがあろうが、死ぬ前に心が通じ合おうが、その殺し合いがいざ始まればそんなものは関係なくなってしまうのです。そしてそれを見ていると、戦争ってそういうものかもしれないと思いました。
戦争映画の中にも希望が描かれるものもあります。殺し合いの中にいて、敵と味方でありながらも、イデオロギーではなく個人的な共感で心が通じ合ったりするものでは、例えば韓国映画の『JSA』などが当てはまります。ところが、戦争自体を描いたら、そうはいかない。ちょっとした出来事で兵隊同士の心が通じ合ったところで、戦争は進行していて、ささやかな共鳴は見事に打ち消される。『ヘイトフル・エイト』は、人種や立場の違いから起こった「密室の戦争」にも希望がないということだと思いました。
タランティーノはミソジニストか?
タランティーノの前作『ジャンゴ 繋がれざる者』は、19世紀半ば(1858年)の南部を舞台に、黒人差別をテーマにしていました。奴隷のジャンゴが、同じく奴隷である妻を取り戻すために奔走する様を描いたこの映画は、最終的には希望のある結末を迎えました。
『ヘイトフル・エイト』は、白人優位主義をテーマにしていると言われていますが、これは舞台に選んだ南北戦争(1861-1865)の10年後にあった白人優位主義を描くだけではなく、現在のアメリカ社会にも繋がるというタランティーノの意図が感じ取れます。そこには、2014年の、黒人青年が白人の警察官に射殺されたマイケル・ブラウン射殺事件へのタランティーノの憤りも関係しているのでしょう。
『ヘイトフル・エイト』には『ジャンゴ』のような希望は描かれません。これは、タランティーノから見て、アメリカ社会が、もはや希望を描いていたのではどうにもならないところまで来ているということではないかと、そんな風にも思えてきます。
この作品のパンフレットのインタビューには、女性のドメルグが鎖につながれ、反抗すれば殴られ、吊し上げられるなどの扱いを気の毒に思ったと言う町山智浩さんに対して、タランティーノが「いいんだよ! だってドメルグはレッドロックの町で縛り首になるために護送されてるんだから!」と答えたと書かれていました。私も、ドメルグに向けて、タランティーノのミソジニーや、それによって得られるカタルシスが特別描かれているとは思えませんでした。この映画にミソジニーがあるのだとしたら、それはアメリカ社会に存在するミソジニー、そしてヘイトを描いているのではないかと思いました。そして、こうしたヘイトは女性だけに向けられているのではなく、この映画に出る人たちがそれぞれに向けているものです。
アメリカに満ちた様々なヘイトと、希望
さて、「ジェンダーが意識的に描かれているもの」と「意識的にはジェンダーが描かれていないけれど、その構造を読みとれるもの」のどちらかという問いに対する答えですが、この映画で、タランティーノは別に女性の置かれた立場だけをことさら表現しようとは思っていなくて、むしろ、主要人物8名の持つ属性すべてが、お互いにヘイトフルである状態を描いただけだと考えられます。その意味においては、フェミニズムやジェンダーを意図的に描こうとはしていないのですが、属性における憎悪を描いているという意味では、その中の8分の1は意図的に女性の状況を記していると言ってもいいのではないかと思います。
もちろん、密室をアメリカに例え、その中に女性が一人というのはどうなのかという疑問もあるかとは思いますが、物語の主軸が男性になる作品もあれば、女性が主軸になる作品もあって、今回は南北戦争の縮図であるだけとも受け取れるでしょう。しかも、この映画には、ミニーのように、ドメルグ以外の女性の存在もあります。でも、彼女たちは「密室の戦争」の外にいます。深読みかもしれませんが、そのことすらも、アメリカの縮図のようにも思えてしまったのです。
この映画には希望がないと書いてきましたが、それは憎しみから争いに入ってしまった場合は希望がないという意味で、実は希望はちょっとだけ描かれていると思いました。それは、ウォーレンがリンカーン大統領と交わしていたという「手紙」です。ネタバレは避けますが、手紙はこの映画の中ではある種の「物語」だと取ることができます。タランティーノは、どんなに酷い歴史があろうと、酷い事件が起ころうとも、物語の力を信じているのかもしれない、という希望をこの映画から感じました。