SNSでは今、はてな匿名ダイアリーの記事を発端に、「#保育園落ちたのは私だ」とタイトルにハッシュタグがつき、乳幼児期の子育ての困難が話題になっている。テレビや国会で当該記事が取り上げられるに留まらず、デモにまで発展している。近年、結婚や仕事、子育ての両立に悩まされる女性問題が大きく話題になりつつある一方で、3月7日の夜に読んだ「日経ビジネスオンライン」に掲載された「逃げる女は美しい」という記事のように、あいも変わらず女性にだけ家庭、出産、子育ての問題を押し付けるような声もある(現在は削除済み、後述)。
家庭と言えば、年収200万を超えたことのない34歳独身の筆者は、お風呂やトイレの掃除、食事の準備や洗濯など日々のあれこれに追われながら、こんなとき生活を共にするパートナーでもいれば……と暗澹たる気分に沈むことがある。現実逃避に、買いだめしたチョコレートを引っ張り出すも、ヤ、今食べたら太るぞと25時を示す時計を見、代わりにみかんを剥いて口に放り込みながら、糖質の低いものから食べれば血糖値の上昇は緩やかになると免罪符のように考えて、結局チョコレートに手を出す。
子育てには生活基盤の安定が必須
わたしのような「男性として生まれて身体を女性化した人間」、つまりトランスジェンダーが家族を作るというロールモデルは見当たらず、結局また立ち尽くしてしまうのである。わたしは子どもを産み育てる未来について15歳くらいで絶望しており、そういう話をすると養子を薦められるのだが、ひとりで育てるにしろ誰かと共に育てるにしろ、その生活基盤がそもそも危ういから結局具体的に考えられもしない。
性的マイノリティのライフスタイルにまつわる国内のニュースは、ゲイ、レズビアンの婚姻制度が主だ。しかし、同性間パートナーシップの話題に子育てが絡んで、養子を取るといった話を耳にしたことはない。そもそもまともに彼氏がいた試しもないわたしは、サンジュー過ぎのトランスジェンダーがいかに男の人とオフィシャルな関係を築いていけばよいのか!? という問いにずーっと頭を抱えていて、子どもどころではない。
他方、周りの20代半ば~40歳くらいの友人知人のあいだでは出産、子育てはホットなトピックだ。「#保育園落ちたのは私だ」で書かれる生々しい話も、SNS上で見聞きしていた。乳幼児を身近な保育園に入れられている人が、養育費が抑えられる認可保育園に入れ続けるべく役所に提出する書類と格闘していたり、本稿執筆中にも、子を認可保育園に入れるための七転八倒や会社の育休との兼ね合いなどについて、同世代の知人女性がSNSで綴っておられるのを読んだ。出産自体が難儀なのに、その後の育児の途方もなさ! を想像させられて、わたしはますます子育てが縁遠く感じられて、宇宙を眺めるように遠い目になってしまう。
が、子育てする未来の見えないわたしにも、この国の子育て問題とまったく接点がないとは思わない。
「家族を作りたい」という素朴な欲求は、ロマンティックな恋愛の延長線上としても理解できるし、収入のうえでも健康のうえでも先行き不安のため、プラクティカルに生活をシェアし支え合う人間関係を構築するという文脈でも、他人事とは思えない。だから、結婚と子育てと仕事と自分に折り合いをつけようとする女性の悩みの切実さを、ときどき想像してみる。ちょっと調べてみると、「保育園難民」問題は社会保障および福祉制度と教育の問題と分かち難いのだと理解でき、茫とした感触だけど、「#保育園落ちたのは私だ」という叫びが多少身近に感じられた。子育てが家庭の外でも担われる必要性は、終身雇用制の崩壊や日本自体の不況も影響しているだろう。
だから、「日経ビジネスオンライン」の「逃げる女性は美しい」には呆れて顎が外れそうになってしまった。
女性の生き方がなぜ限定されなくてはいけないのか
くだんの記事は、北海道在住で競馬評論を中心にライターをしているという本島修司という方が書いたものだ。「女の人の人生の“目的”」は「結婚か、仕事か、子育てか」で、そのうちの「1つか2つ」くらいしか「やり切れることは」ない、だから欲張って「自称万能ガール」にならず、自分の人生の目的にフォーカスしていきましょう、というのが記事の主旨である。はっきり言って、ヤ、わたしがはっきり申し上げなくてもネット上のそちこちで「意味不明」「文章が下手」という意見が散見され、とっちらかり具合については追って申し上げることはありません。
女性の人生の目的を三つに限定し、「仕事か結婚か」と選択を迫り、「産み育てよ」と子育てについて女性にばかり押し付けるばかりでなく、人生の選択肢を前に右往左往する女性を「ヒステリー」で「キーキー言」う存在としてまとめ、さらには仕事と美を追求しながら家庭を持とうとする女性については「家事や料理はてきとうにこなし~」などと乱暴に類型化して貶めるような、腐った価値観にまみれた文章に、どこの飲み屋でクダ巻いてるおっちゃんや……と目眩がしつつ、ちくちくツッコミたくもなる。
本島氏の記事における「女」には実態が見えない。紋切りな女性蔑視、女性に対する前時代的な性規範でもって外側からジャッジするという、はーん、出た出た、その手のアレね! と反論したり茶化す気すら失せるテンプレでしかなく、無自覚なマッチョ意識にまみれた差別意識に加えて、入院経験で人の生死を目の当たりにして得た天啓! とお題目を唱え、センチメンタルに訴えかけようとする姑息さが漂う文章には笑うしかない。
それにしても、氏がこれほど文字数を費やしてメッセージを投げかけたい対象は誰なのだろう? 「日経ビジネスオンライン」の掲載目的も何だったのだろう? 「仕事は男の本分、出産したら女は家庭に入れ、できないなら子どもは諦めて仕事だけしろ」というマッチョな思想の持ち主で、そんな俺様が考えうる選択肢以外は除外! といった雑な具合で男尊女卑な読者を想定して、彼らの溜飲を下げるためなのだとしたら、なんかもう手に負えません。
先の話に戻ると、女性が仕事、結婚、育児に悩むのは、本島氏が二者択一で迫る「仕事と結婚」か「結婚と子育て」以外の、多様な在り方が存在するからだろう。しかも、その多様な個々人の生き方は、個人の希望や裁量ではままならない現実に縛られたうえでの「多様な生き方」なのである。その「ままならない現実」を作り上げているのは、家庭や育児のあれこれを「母親の領分」とする性別役割を押し付ける規範であり、「仕事か、結婚か、育児か」と迫るだけで両立や負担の分散を許さない社会の制度だ。そういう現実のもと、子育てを生活に組み込むとなると夫婦ともにお金を稼ぐべく就労の必要があるとか、収入や育休期間との兼ね合いで保育園選びをしたり、そこで認可保育園に入園できなければ、無認可にするかそれ以外にするか、と、例にあげるだけで簡単な選択肢ばかりではなく、生き方が縛られる。結婚、育児は未経験の女性でも、先人たちの声からその手の悩みの訪れを予想ができる。本島氏は自分が同じように問われたらどう思うのでしょうか? 子育てを選ぶいずれの家庭も主婦的役割が必要と考え、相手の収入が許せば自身が家庭に入ることも考えたことはあるのでしょうか?
仮に本島氏が、生き方で右往左往している女性に少しでも楽になってほしいという思いでこの記事を書かれたのならば、ご自身のセンチメンタリズムを刺激された「幼稚園児くらいの小さな子供が、お母さんがひっぱるソリに乗って、近所のスーパーに買い物へ出かける」、その生活の実態を知るべくインタビューでもしてみてはどうだろうか。その母はシングルマザーかもしれないし、実は「バリキャリ」かもしれないし、貧困家庭に苦しんでいるけど偶然そのとき本島氏に母子の光景が微笑ましく見えただけだったのかもしれない。ソリの母子はそこから逃げたいと望んでいるかもしれない。その買い物はお父さんが担っても良い。感傷にまみれて「雪道。ソリに、スーパーの買い物袋と、我が子を乗せて引っ張る女」などと綴る暇があったら、逃げたい女性のために本島氏自身がソリを引いてみたらどうだろう。
わたしは、そういう風に生活、仕事、経済などの問題を家庭や個人から政治へとつなげて考えられる男の人と付き合えたらいいなと夢想して、チョコを食べるのをやめて、家計のために蓮根のきんぴらを作る。
……そうして原稿を書き終えようとしていたところ、当該記事が削除されてしまいました。理由は「記事の意図が十分に伝わらず、読者の皆様に誤解を与えかねない表現になっておりました」とのことだけど、これはどういうことだろう? 記事の意図するところを読者がきちんと汲み取っていないという意味なのか、それとも意図に対して表現が適切ではなかったという意味なのか?
以前、「TOKYOWISE」が「質のいい外国人」「質のいいゲイ」という表現を組み込んだ記事の、当該箇所を削除したことについても書かせてもらった。今回もそうだが、反論などネガティブな反応が寄せられると詳しい説明もなく、削除する=なかったことにするというのは、メディアの対応として果たして適切なのだろうか? 誰も全方位にパーフェクトな表現や対応などできないと思うけれど、したことをきちんと引き受け、弁解したり謝罪したりできないものでしょうか。
(鈴木みのり)