「男/女言葉」から表出するジェンダー規範
『リリーのすべて』において一点、わたしが気になったのは、字幕翻訳でいわゆる「男/女言葉」が通底しているところだ。アイナーがリリーになるとき「~だわ」「~なのよ」といった語尾が使用される。妻・ゲルダの呼び方も「君」から「あなた」へと変わっていく。実際の自分たちの生活を踏まえて考えると、そもそも男女間に語尾の違いはさほどないと思われるし、トランジションの過程で二人称すらも変化するとは考えにくい。
日本語のフィクション作品では、「女性=女言葉」「男性=男言葉」と自動的に言葉遣いが割り振られる風潮がある。また、「ゲイ男性=オネエ言葉=女言葉」「レズビアン女性は様相が男っぽいか女っぽいかで口調が色付けされる」といった文法が自動的に選択される傾向も、性的マイノリティを扱うフィクション作品からうかがえるので、紹介したい。
例えばFtMの主人公の悲劇を描いた『ボーイズ・ドント・クライ』(1999年)では、主人公の従兄弟がゲイという設定なのだが、彼のセリフにはいわゆる女言葉の字幕があてがわれていた。彼の振る舞いが、いわゆる「オネエ」的なもの、つまり過剰な女性性を体現−−たとえば身体をくねらせたり小指を立ててグラスを持ったり−−しているのならば、百歩譲ってそういう翻訳も理解できなくはないけれど、作中では彼がそういった特徴を持っているようには見えない。
父からMtFであることをカミングアウトされる家族を巡る、アマゾンプライムのオリジナルドラマ『トランスペアレント』では、レズビアン女性である登場人物のセリフが「男らしく」翻訳されている。彼女はベリーショートの髪型で、よくジャケットを羽織っており、様相はたしかにフェミニンと言うよりはマスキュリンなのだけど、わたしはこれも翻訳の手グセではないかと感じた。とりたてて雄々しいキャラクターに見えなかったからだ。彼女と同じような風貌をしていても、「男らしい」口調ではない人もいる。
このような、ささやかながら無意識に使用される表現習慣を考え直してみることは、リリー以前の時代から現代のわたしたちへと続く、固定化されたジェンダー観によって苦しむ、あらゆる人々にとって意味のある問いになるのではないだろうか? なお、『リリーのすべて』のプレスリリースによると、トランスジェンダーはじめLGBTQにまつわる用語の取り扱いに注意が払われていたようだ。そこで本作の字幕を手がけた翻訳者に取材を申し込んだのだが、残念ながら時間の都合上かなわなかった。