『英国王のスピーチ』で2010年にアカデミー監督賞を受賞し、『レ・ミゼラブル』をミュージカル映画としてヒットさせたトム・フーパーが手がける新作『リリーのすべて』。本作は、19世紀末にデンマークで生まれた画家のリリー・エルベという、世界ではじめて性別適合手術を受けた人物を描いている。アリシア・ヴィキャンデルが第88回アカデミー賞助演女優賞を受賞したことでも注目を集めた。
これまで欧米では、『プリシラ』(1994年)、『ぼくのバラ色の人生』( 1997年)、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(2001年)、『トランスアメリカ』(2005年)、『わたしはロランス』(2012年)など、生物学的には男性として生まれ、女性化するトランスジェンダーを描いた映画作品が製作されてきた。『リリーのすべて』では、当事者が歩むトランジション(性別移行)のリアルな過程が反映され、丹念に描かれている点がおもしろい。
日本では、『3年B組金八先生』の第6シリーズ(2001~02年)で、女性として生まれ男性化しようとする生徒を上戸彩が演じて話題となり、一気に「性同一性障害」という言葉は広まった。最近は、「LGBTQ」という言葉がトレンドで、同じ性的マイノリティということで一枚岩とされがちだが、トランスジェンダーと、レズビアンやゲイそれぞれが抱えている社会生活上の問題は異なる。トランスジェンダーでも、女性から男性化するFtM(Female to Male)と男性から女性化するMtF(Male to Female)で抱える困難ももちろんちがう。今回は『リリーのすべて』を足がかりに、MtFのトランジション、そしてフィクションにおける「男/女言葉」の使われ方を中心に、考えを記させていただきたい。
衣装の変化が描く「女性らしさ」への志向
一般的にわたしたちは、生まれたときに男女の区別を与えられ、同じ性別カテゴリーに属する人間を観察し、振る舞いを習得していく。画家のアイナーは、同じく画家の妻ゲルタからの依頼で女性モデルの代役を引き受けたことをきっかけに、自分の中の「女性性」を発見し、女性装の際は「リリー」と名乗るようになる。その後、鏡を覗き込んでは、男性である自身を確認したり、女性らしい様相になじむ姿を確認したり、社交の場で遭遇する女性たちの振る舞いを模倣したりして、手指の動きや足の伸ばし方などを丹念に学ぶ。こうした姿は、実際のMtF当事者からも聞く話だ。そして、時間の経過と共に、リリーは少しずつ派手な振る舞いが取れ、落ち着いた服装や色味を好むようになっていく。この点も当事者によくある話で、リサーチのきめ細かさに刮目した。
わたしは、この4年間に渡って、SRS(性別適合手術)を受けるためにバンコクへ行く5人のMtF当事者に同行し取材を重ねている。
いずれの当事者も、術後ミニスカートやショートパンツを履き、露出度の高い服装を見せた。わたし自身も2012年にSRSを受けたのだが、その後の心境を鑑みると、ある種の開放的な気分がそうさせているのではと推測する。例えば、術前だとスカートだけを履くということができず、下にショートパンツなどを重ねていたが、これは、何かの拍子にスカートがめくれ、男性のままの股間が露わになり、自身の男性性が表に出ることを恐れたためだ。こうして抑圧されてきた違和感や欲求が術後に一気に解放されると、派手さや肌の露出を志向し、ある種過剰に「女性らしい」様相へと進むのではないかと考える。
こうしたトランジションにおける戸惑いや喜びを、本作では大げさに描くのではなく、時間の経過と共に主人公が微妙な衣装の変化を見せることで、MtFの在り方の典型のひとつが丁寧に掘り下げられていると言える。配給会社の東宝東和の広報の方によれば、実際の台本では「アイナー」「アイナー/リリー」「リリー」と主格が使い分けられ、主人公のアイデンティティの揺れや変化を演技や演出に反映させられるように気配りがされていたようである。
監督のトム・フーパーは「現実の自分と理想の自分との間にある壁をどうやって乗り越えるかというテーマ」のもと、本作を製作したそうだ。しかし当然のことだが、現実にはトランジションにおけるハードルの多さ、高さは個人個人によって異なる。例えば実際のMtFは、エディ・レッドメインのように美しく、女性らしい肉体や顔を生まれながらに持ち合わせている人ばかりではない。むしろ、骨格上、男性的な様態であるケースが当然ながら多く、ある程度の美容整形や脱毛、ホルモン投与による丸みのある身体への変化、といったプロセスを経ないと一般社会に溶け込んでいくことが難しい。肉体が男性的なまま女性装をすると、「女装」と嘲笑されることも多い。
「男/女言葉」から表出するジェンダー規範
『リリーのすべて』において一点、わたしが気になったのは、字幕翻訳でいわゆる「男/女言葉」が通底しているところだ。アイナーがリリーになるとき「~だわ」「~なのよ」といった語尾が使用される。妻・ゲルダの呼び方も「君」から「あなた」へと変わっていく。実際の自分たちの生活を踏まえて考えると、そもそも男女間に語尾の違いはさほどないと思われるし、トランジションの過程で二人称すらも変化するとは考えにくい。
日本語のフィクション作品では、「女性=女言葉」「男性=男言葉」と自動的に言葉遣いが割り振られる風潮がある。また、「ゲイ男性=オネエ言葉=女言葉」「レズビアン女性は様相が男っぽいか女っぽいかで口調が色付けされる」といった文法が自動的に選択される傾向も、性的マイノリティを扱うフィクション作品からうかがえるので、紹介したい。
例えばFtMの主人公の悲劇を描いた『ボーイズ・ドント・クライ』(1999年)では、主人公の従兄弟がゲイという設定なのだが、彼のセリフにはいわゆる女言葉の字幕があてがわれていた。彼の振る舞いが、いわゆる「オネエ」的なもの、つまり過剰な女性性を体現−−たとえば身体をくねらせたり小指を立ててグラスを持ったり−−しているのならば、百歩譲ってそういう翻訳も理解できなくはないけれど、作中では彼がそういった特徴を持っているようには見えない。
父からMtFであることをカミングアウトされる家族を巡る、アマゾンプライムのオリジナルドラマ『トランスペアレント』では、レズビアン女性である登場人物のセリフが「男らしく」翻訳されている。彼女はベリーショートの髪型で、よくジャケットを羽織っており、様相はたしかにフェミニンと言うよりはマスキュリンなのだけど、わたしはこれも翻訳の手グセではないかと感じた。とりたてて雄々しいキャラクターに見えなかったからだ。彼女と同じような風貌をしていても、「男らしい」口調ではない人もいる。
このような、ささやかながら無意識に使用される表現習慣を考え直してみることは、リリー以前の時代から現代のわたしたちへと続く、固定化されたジェンダー観によって苦しむ、あらゆる人々にとって意味のある問いになるのではないだろうか? なお、『リリーのすべて』のプレスリリースによると、トランスジェンダーはじめLGBTQにまつわる用語の取り扱いに注意が払われていたようだ。そこで本作の字幕を手がけた翻訳者に取材を申し込んだのだが、残念ながら時間の都合上かなわなかった。
フィクションと現実の境を見極める
映画のみならず、あらゆる創作物はフィクションであり、すべてを現実に則した内容にする必要はない。むしろ、あえて現実とは異なる表現が豊かさをもたらしもする。ある過去の時代を描く際に、現在では差別的とされる表現が使われる場合もある。翻訳の際も意訳した方がより作品の主旨が伝わりやすくなる場合もある。だから享受する側は、現実をある程度なぞった作品であってもあくまでもフィクションだと念頭に置き、どこが現実と異なるかを注意して観る必要があるだろう。
『リリーのすべて』の、計算されたカット割りや映像の質感や美術の繊細さは目を引くし、とても美しい。しかし「美しいMtFが妻の愛に支えられて、自分の生をまっとうしようとした」とまとめられた物語を美化して、すべてのトランスジェンダー当事者に当てはまるものと考えてはいけない。
また本作では、リリーが性器を変更する手術を受けるエピソードがクライマックスとして描かれているが、実際のMtFの当事者は手術を望む人ばかりではない。そもそもリリーのように見目麗しいケースは稀である。だから美容整形に手を出す者も後を絶たない。美容整形に手を出したことを恥ずべきものと糾弾する自然至上主義者からの追及や、マイノリティへの卑下と差別意識から自分を救うために、処世術としてオネエ言葉を自分にまぶし、道化を演じる者もきっと多い。もちろん、トランスジェンダーすべてが悲壮感に暮れているわけではない。
こうした点を踏まえても、『リリーのすべて』は個人の自由と、それを支える健気な愛を巡る物語としてすばらしい。ヴィキャンデルが演じるゲルダは、リリーの変化に戸惑いながらも献身的に支えるが、家族から拒絶されるケースもよく聞く。同じく夫が女性化する『わたしはロランス』では、トランジションに付いていけない妻が、しかし周囲の偏見の目に怒りを露わにするエピソードはとても印象的だった。身近な人間の中には、当事者を尊重する思いを抱えながら、理解しきれない矛盾を抱えることもある。それでも解放されていくリリーを献身的に支えるゲルダの情愛が痛切で、その侘しさが漂うような映像の美しさにも見惚れる
鑑賞したひとりでも多くの人々が、本作をきっかけに、現在にも引き続く差別的な価値観とトランスジェンダーの生き難さに関心を寄せてもらえたらと願わずにいられない。
(鈴木みのり)
【註】SRS: Sex Reassingnment Sugery は性別適合手術の略称で、いわゆる性転換手術を指す。『リリーのすべて』のプレスリリースではGender Confirmation Surgeryを用語として推奨しているが、Gender Reassingment Surgeryと呼ぶ関係者もいる。トランスジェンダーという存在、概念が一般に浸透しはじめた過渡期ならではの、当事者それぞれの思惑が異なるがゆえの用語の表現が定まらない様子についても考察の余地があるけれど、今回は割愛させていただく。