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「女の子」を愚弄した秋元康を<断罪>する  『glee』が私たちに教えてくれたこと

【この記事のキーワード】

誰かに愛されるために自分を犠牲にするな!

ドラマのヒロイン・レイチェルは自分の欲望を臆せず発し、転んでも転んでもへこたれずそれを追い求めることを止めない。悪目立ちするアクの強い性格ゆえに周囲からいじめられ続けるが自己肯定感を失わず、並みの男が圧倒されてしまうような才能とパワーを発している。にもかかわらず、最終的には純朴な青年フィンをして「俺の人生には彼女が必要だ」と思わせるようになるのだ。レイチェルが最大の目標として仰ぐバーブラ・ストライサンドの映画『追憶』では、社会的成功を手にしても才ある女は愛する男を得ることはできなかった。ライアン・マーフィーは『追憶』で描かれたそのセオリーをこのドラマで覆したかったのではないかと私は個人的に思っている。

翻って冒頭のクィンの言葉を聞くと、現代の高校生である彼女の頭の中身が70年代映画の意識とそう変わらないことがわかる。 既出のセリフの前に彼女はこうも言っているのだ。

「どうせ私はこの田舎町を出られない。せいぜいがフィンと結婚してプロムのキング&クイーンだったことだけを過去の栄光にして生きていくのよ」

しかし彼女の実態はオールAの成績を維持し、チアリーダーのキャプテンを務める大優等生だ。そう、彼女は能力があるにもかかわらず「普通の女がだいそれた野望を抱くものじゃない」「女の子は可愛くありさえすればいい、よけいな学歴はいらない、邪魔になるだけだ」という世間の規範、価値観を先回りして内面化してしまうほどの”優等生”なのである。

その重圧が並大抵のものでないことは、猛勉強のストレスでやけ食いしてしまい太ることの恐怖に怯えた彼女が、遊び人のパックの「お前は太ってねぇ。お前はきれいだ」という言葉の誘惑に乗ってしまったことからも推察される。結果、彼女は高校生にして妊娠してしまい、学園の女王の地位を降ろされてしまう。

ライアン・マーフィーは、私の人生なんて大したことは起きない、というクィンの予想を覆すこのような出来事を次々とドラマの中で起こしていく。それはまるで番組内のメロドラマ部分を彼女が一手に引き受けているかのようだった。ライアンが彼女に課した運命は本当に過酷で、その試練に耐えられず恥も外聞もなく男の愛を懇願してもそれを拒まれてしまう。学校一の美人の彼女が安易に恋愛に逃避することも許されないのだ。青春ドラマは恋愛描写が売りであるにもかかわらず。

ライアン・マーフィーはクィンというキャラクターを通して「マイノリティであればあるほど自分を肯定し、自分の欲望を追及するんだ! 誰かに愛されるために自分を犠牲にして世間に迎合したってなにもいいことはない、君が世界を変えるんだ!」というメッセージを我々に投げかけてくる。それを体現するように、クィンは好奇の目にさらされながらも大きなお腹で高校に通い優秀な成績を維持して、最終的にはその経験を書いたエッセイが評価されたことで名門・イェール大学に進学する。

ライアン・マーフィーと秋元康

ここまで読んでいただいた方には、秋元康氏作の問題の歌詞にある

「どんなに勉強できても 愛されなきゃ意味がない」

という世間から女の子に課された規範を、一貫して否定してきたドラマが『glee』だということがお分かりになると思う。なんと言っても『glee』は「自分の夢を叶えることと愛する男性どちらも諦めない!」と前進し続けるレイチェルがヒロインなのである。

「ニュースになんか興味がないし たいていのこと 誰かに助けてもらえばいい」
「人は見た目が肝心 だってだって内面は見えない」

というのも嘘であることを『glee』は教えてくれる。「人の内面は外から見える」し、安易に恋愛を消費しないキャラクターが本作に多数登場する。逆に自分の美貌に頼ってもたれかかってくるクィンに対して「Hold on to Sixteen(君には未来がある、自分の可能性を楽しめよ)」と世間の規範から逃れられない彼女に助言を与えようとすらしているのだ。

愛する人たちと自己肯定感を持って生きていこう、世界を変えよう、そのためには勉強すること、自立することが必要だとティーンにメッセージを送るライアン・マーフィーと、女の子は世間の期待に応えるのがあるべき姿なんだ、そうしていれば生き易いし世間に愛してもらえる、難しいことはなにも考えなくていい、ただ世間の言うことを聞いていればいいとする秋元康が、それぞれアメリカと日本のポップカルチャーの柱となる存在であることはとても示唆的だ。

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