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少女監禁事件をネタで消費する二次加害者たち 他者の痛みに蓋をする社会を浮き彫りにする『ルーム』と『スポットライト』

【この記事のキーワード】

「支配から生まれる愛」はファンタジーに過ぎない

前述の、未成年者の性的搾取を「ネタ」として言及したがる人たちの一部が好んで語るのが「現実とフィクションの違いくらいわかる」という文言である。しかし彼らは一方で、“愛あるエロゲ(性描写、暴力描写の多い18禁ゲームの意)”の代表として未成年の少女を監禁し、食事をやり手なずけ「心を開かせたうえで」セックスをするゲームを悪気なく挙げたりもするのだ。そのゲームのバッドエンドはその環境に適応できなかった「少女の死」である。これは裏を返すと、理不尽に他者に生殺与奪を握られた人間が自分の命を奪われる恐怖と闘いながら必死にその異常な環境に適応しようとしている行為を“愛が生まれた”と抜けぬけと言っているのと同じだ。

自分の経験を語る活動を続ける一方で学業にもいそしんだアリシアは心理学修士課程に進み、今年それを修了させるとともに結婚する予定である。これは犯人に強制的に劣悪な環境に閉じ込められ続けていたら決して訪れなかった未来だ。

「愛する人の優しい手も邪悪で有害なものに突然感じてしまうことに長い間私は苦しんできた。でもフィアンセは私の使命を応援してくれる素晴らしい人よ」
「長い時間をかけて私が学んだのはレイプのすべては力と支配、でも愛はそれとはまったく違うということ」

“現実とフィクションを区別できる”と自称する人たちが持つ「支配から生まれる愛」というファンタジーを、サバイバーであるアリシアがはっきりと否定したとき私たちの社会に欠けているものを見たような気持ちになった。

アリシアのように必ずしも実名と顔を出さなくてもよい、ただ生存者が自己肯定感を回復し社会参加できる場を形成することが結果的に身勝手な卑しい“強者のジョーク”“弱者を搾取してはばからない空気”を、ネットそして社会から自然に駆逐していくことにつながるのではないかと。そしてそれは単純に「報道しない」「あったことを忘れる」ことでは実現できない。

被害者は私たちの中にいる

しかしなぜここまでも弱者の痛みを他人事だと思えるのか、そのヒントが同じくオスカーの賞レースに並び、みごと作品賞を獲得した映画『スポットライト』の中にあった。隠ぺいされてきた神父による児童の性的虐待を報道する意義について、被害者への調査を重ねてきた新聞記者の一人が感極まって発するセリフである。

「(被害者は)俺だったかもしれないんだ、あんただったかもしれない、俺たちだったかもしれないんだよ」

被害者たちは決して特別な人たちではなかった、たまたま運が悪かっただけ。自分が、自分の子どもたちがいつ被害にあってもおかしくなかったことを社会全体で看過してきてしまった。

地元で、世界で権威をもつ教会に慮って一連の神父の性犯罪は何十年も大々的に報道されないできた。それは私たちの社会における教師や指導者たちによる児童への性犯罪と同じ構造である。その中には男児も少なからず含まれている。社会がそこから顔を背ければその被害者たちは「いなかった」ことになる。「自分たちとは違う」被害者たちはさらに遠い存在になり、それらの被害はよりいっそう“他人事”として受け止められるようになるのだ。結果、事件の詳細は社会において語られず、良識ある人たちはそっと蓋をし、ネットでは下卑たジョークのネタにされてしまう。

『スポットライト』は今年度オスカー作品賞受賞作であるにも関わらず日本の初週興行収入は7位であった。『ルーム』に至っては8位スタートである。どちらも第二週は10位以下に落ちてしまっている。格別の注目が集まっているとは言えない。どちらの作品も現在私たちの社会で同じく起こっている問題を取り扱っているのに、だ。今からでも遅くない、ぜひこの2作品をご覧になっていただきたい。サバイバーが自分を恥じることなく「被害者」であると表明することを受け止められる社会を、サバイバーとして社会に参画し自己肯定感を得られる社会を私たちは作らなくてはいけないからだ。
パプリカ

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