撃てない国で「男らしさ」とは何かを模索する『アイアムアヒーロー』

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(C)映画「アイアムアヒーロー」製作委員会 (C)花沢健吾/小学館

(C)映画「アイアムアヒーロー」製作委員会 (C)花沢健吾/小学館

現在ヒット上映中の『アイアムアヒーロー』は、花沢健吾の人気漫画を原作に、『図書館戦争』の佐藤信介がメガホンをとり、脚本を『図書館戦争』や現在放送中のドラマ『重版出来!』の野木亜紀子が手掛けています。

物語は、謎の感染症が蔓延し、ZQNといわれる食人鬼が町にあふれかえってしまった日本を舞台に繰り広げられます。漫画家のアシスタントをしていた35歳の鈴木英雄(大泉洋)は、ZQNから逃れるために偶然タクシーに乗り合わせた高校生の比呂美(有村架純)と出会います。標高の高い場所では感染しないというネット情報を頼りに、ふたりで富士山へ向かう途中、アウトレットモールでZQNと戦う集団と合流し、たまたまクレー射撃を趣味にしていた英雄がZQNに立ち向かうまでを描いています。

遵法意識の高い生真面目な主人公

この映画、世界のファンタスティック映画祭で受賞を重ねていて、各地の観客にも受けたそうですが、英雄の行動に意外性とユーモアを感じて爆笑しているとも聞きます。「アメリカだったら銃社会なのでこの物語は成立しないかも」ということを、大泉さん自身もインタビューで語っていますが、アメリカだけでなく、日本以外のどの国でも同じようには成り立たない作品かと思います。

例えば韓国だったら、たいていの映画の主人公(例えば『ベテラン』のファン・ジョンミンを思い描いてください)は、躊躇や葛藤することなく法の目をかいくぐりながら正義の道を見つけ出します。また、男性なら(なんらかの理由で兵役の義務を免除された男性以外は)誰もが銃を撃った経験がある韓国では、ZQNがあふれ帰った非常事態で英雄のように発砲をためらうことはないでしょう(この映画の撮影が韓国で行われたことは、この日韓の対照的な状況を象徴しています)。

でも、日本に生きる英雄にはなかなか発砲できない。そこには、日本という国の戦争に対してのあり方にも関係があると思います。そして、そんな国で男性が「男」になるのは非常に難しく、この映画は、日本で「男」としてどうあるべきか、ということを問うているようにも見えました。

そんなテーマを強調するためにこそ冒頭で登場するてっこ(片瀬那奈)という英雄の彼女が原作とは違う性質のキャラクターになっているのでしょう。映画での彼女の言動は、英雄が稼げない、うだつのあがらないキャラクターであることを強調しますが、漫画での英雄は稼げないことに悩むというよりも、むしろ漫画家である自分の文化的なアイデンティティに悩んでいる人です。この映画では、最初にてっこと英雄のやりとりを見せることで、一般的なあらまほしき「男らしさ=稼げる」ということを誇張して伝えているのでしょう(原作の英雄は、稼ぐ以外のアイデンティティを模索するタイプの男性なわけです)。その分、原作ファンの期待する「2ちゃんねる的」「サブカル的」な男のルサンチマンや、メンヘラ的なてっこのエモいエピソードなどが省かれることになったのだと思います。

原作以上に強調されたのは、英雄の生真面目で普通すぎるくらい普通で、法を守るというキャラクターでした。例えば、同棲している彼女のてっこに部屋を追い出され、英雄が趣味で所持していた猟銃を外に放り出されたときも、英雄が一番に気にかけたのは、てっこの機嫌ではなく猟銃の許可証でした。それがないと、銃刀法違反で捕まってしまうからです。もちろんこうした設定は原作にもありました。ただ、サブカルでルサンチマンを持つ英雄が法を守るのは意外性がありますが、普通すぎる英雄が法を守る姿には意外性はなく、真面目さ、安全さを誇張することになっています。

世の中がパニックになっても、英雄は法を守ります。比呂美とたどり着いた廃墟となったショッピングモールの、誰もいないお店で皮ジャンを拝借するときも、値段を気にして勝手に拝借することに躊躇します(カットにはなりましたが、拝借するためにメモを置くシーンもあったそうです)。もちろん、危機的状況に陥っても、英雄はなかなか発砲することができません。一緒に逃げてきた半分ZQNの比呂美が一触即発の危機という場面であっても、です。

男らしさは、「暴力性」に宿るのか「安心」に宿るのか

英雄と比呂美が辿り着いたショッピングモールには、逃げ延びた人びとの小さな集団が出来ていました。法はその集団のリーダー、井浦(吉沢悠)の手の中にあります。こういうパニック状態のときは、ヒロイズムに浸りたい男性がだいたい現れるもので、男女の役割も伝統的なものに戻りがちです。権力を持てば、女性をモノとして扱う輩も出てきます(あまりあからさまではありませんが、この映画でも、『インサイダーズ/内部者たち』のように、腐敗した権力とミソジニーの結びつきが描かれていました)。

そして、ZQNを倒すということが生きるために最も重要な状況で、猟銃を持っている英雄は、それだけで権力を持ったも同然です。だからこそ、リーダーの井浦も英雄を丁重に迎えます。

英雄の良いところは、危機的状況でひとりだけ猟銃を所持していて、簡単に支配者にもなれ、ヒロイズムに浸れる状況化で、簡単にそれを信じないところにあります。

もちろんこうした状況下で、銃を持っているというのに撃てないということは、大変な「ヘタレ」でもあります。でもそのことによって、危機的状況で己の暴力性を思う存分発散できることに興奮してアドレナリンを出しまくり、銃をやみくもに乱射してしまうサンゴ(岡田義徳)というキャラクターの行動に、果たして本当の「男らしさ」が宿っているのかを考えさせてくれます。英雄が「暴力性」の代わりに持っているのは、国から与えられた銃を撃つ許可と銃を撃つ技術なのです。

危機的状況には、確かにリーダーが必要です。でも、危機的状況だからこそ、稼いでいるとか稼いでいないとかという、映画の冒頭でも示された「男らしさ」の価値が無意味になります。平等になった男たちは、誰しもが「ヒーローになれるのではないか」と希望を持ってしまう。そして、「稼げる」ことが無価値になったとき、次に信じられることになってしまった「男らしさ」は、「力=暴力性」でした。しかし『共喰い』でも見られたように、暴力性は男の目をおかしくしてしまいます。それは井浦やサンゴの行動を見れば一目瞭然でしょう。

映画には、比呂美が「英雄くんといると安心する」と言うシーンがあります。「安心」という言葉が男らしさからかけ離れていると思う英雄は、これを聞いてがっかりします。英雄もまた、暴力性に男性性が宿ることを知らず知らずに信じているからでしょう。でも、比呂美はそんな英雄を見て「褒めてるのに……」とつぶやきます。これは、多分ですが、多くの女性の本心ではないかと思うのです(ちなみに長澤まさみ演じる藪もまた、英雄の優しさを「かっこいいな」と褒めますが、英雄はこのときも、かっこいいって見た目じゃないのか、とがっかりするのです……)。

大泉洋演じる英雄の目は、襲ってくる幾多のZQNを撃っているときですら、「おかしく」なっていないように見えました。それは、危機的状況でも常に冷静に弾数を把握していたところからもわかりますし、銃を撃つまでに、充分すぎるくらい葛藤して自分の弱さと向き合っていたからだとも思います。女性から安全と言われることは、男性にとっては、不名誉なことかもしれませんが、それは、暴力性に男性性が宿ると思うのと同じくらい思い込みに過ぎないのかもしれないと思うのです。

もちろん、この映画では英雄が初めて「撃つ」シーンにはカタルシスがありますし、英雄がZQNと立ち向かった後にも、恍惚とした瞬間が描かれてはいます。比呂美の胸元に目をやるシーンだってあります。でも、英雄はすぐに正気に、そして普通の人間に戻るのです。

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