撃てない国で「男らしさ」とは何かを模索する『アイアムアヒーロー』

【この記事のキーワード】

男らしさは、「暴力性」に宿るのか「安心」に宿るのか

英雄と比呂美が辿り着いたショッピングモールには、逃げ延びた人びとの小さな集団が出来ていました。法はその集団のリーダー、井浦(吉沢悠)の手の中にあります。こういうパニック状態のときは、ヒロイズムに浸りたい男性がだいたい現れるもので、男女の役割も伝統的なものに戻りがちです。権力を持てば、女性をモノとして扱う輩も出てきます(あまりあからさまではありませんが、この映画でも、『インサイダーズ/内部者たち』のように、腐敗した権力とミソジニーの結びつきが描かれていました)。

そして、ZQNを倒すということが生きるために最も重要な状況で、猟銃を持っている英雄は、それだけで権力を持ったも同然です。だからこそ、リーダーの井浦も英雄を丁重に迎えます。

英雄の良いところは、危機的状況でひとりだけ猟銃を所持していて、簡単に支配者にもなれ、ヒロイズムに浸れる状況化で、簡単にそれを信じないところにあります。

もちろんこうした状況下で、銃を持っているというのに撃てないということは、大変な「ヘタレ」でもあります。でもそのことによって、危機的状況で己の暴力性を思う存分発散できることに興奮してアドレナリンを出しまくり、銃をやみくもに乱射してしまうサンゴ(岡田義徳)というキャラクターの行動に、果たして本当の「男らしさ」が宿っているのかを考えさせてくれます。英雄が「暴力性」の代わりに持っているのは、国から与えられた銃を撃つ許可と銃を撃つ技術なのです。

危機的状況には、確かにリーダーが必要です。でも、危機的状況だからこそ、稼いでいるとか稼いでいないとかという、映画の冒頭でも示された「男らしさ」の価値が無意味になります。平等になった男たちは、誰しもが「ヒーローになれるのではないか」と希望を持ってしまう。そして、「稼げる」ことが無価値になったとき、次に信じられることになってしまった「男らしさ」は、「力=暴力性」でした。しかし『共喰い』でも見られたように、暴力性は男の目をおかしくしてしまいます。それは井浦やサンゴの行動を見れば一目瞭然でしょう。

映画には、比呂美が「英雄くんといると安心する」と言うシーンがあります。「安心」という言葉が男らしさからかけ離れていると思う英雄は、これを聞いてがっかりします。英雄もまた、暴力性に男性性が宿ることを知らず知らずに信じているからでしょう。でも、比呂美はそんな英雄を見て「褒めてるのに……」とつぶやきます。これは、多分ですが、多くの女性の本心ではないかと思うのです(ちなみに長澤まさみ演じる藪もまた、英雄の優しさを「かっこいいな」と褒めますが、英雄はこのときも、かっこいいって見た目じゃないのか、とがっかりするのです……)。

大泉洋演じる英雄の目は、襲ってくる幾多のZQNを撃っているときですら、「おかしく」なっていないように見えました。それは、危機的状況でも常に冷静に弾数を把握していたところからもわかりますし、銃を撃つまでに、充分すぎるくらい葛藤して自分の弱さと向き合っていたからだとも思います。女性から安全と言われることは、男性にとっては、不名誉なことかもしれませんが、それは、暴力性に男性性が宿ると思うのと同じくらい思い込みに過ぎないのかもしれないと思うのです。

もちろん、この映画では英雄が初めて「撃つ」シーンにはカタルシスがありますし、英雄がZQNと立ち向かった後にも、恍惚とした瞬間が描かれてはいます。比呂美の胸元に目をやるシーンだってあります。でも、英雄はすぐに正気に、そして普通の人間に戻るのです。

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