炎上中の「声かけ写真展」 成人が未成年の<合意>を対等に扱うことのリスク

【この記事のキーワード】

「少女に声をかけ、同意を得て、写真を撮る」ということ。

思い出すことがある。

中学2年生の夏だった。家の近くで写真を撮っている男性に、「写真を撮って故郷に送るから、自分を写してほしい」と頼まれ、了承してシャッターを切った。カメラを返そうとすると、今度はツーショットを要求された。嫌だと思ったが、断りきれずに曖昧に頷くと、男性は私の肩を引き寄せて顔を近づけてきた。これ、まずい。そう思って走って逃げた。私の肩を掴む手の力の強さが恐ろしく、いまだに男の体臭まで覚えている。

あの時、私は、「断る」ことができなかった。

なぜそれができなかったのか、そこに1つの答えがあるように思う。

コミュニケーションは必ずしも対等ではない。「成人男性」が「未成年女性」に声をかけるとき、パワーバランスが不均衡になるのは明らかだ。たとえ成人男性の側にその気がなかったとしても、未成年女性の側からすれば、端的に言うと「相手が本気を出せば自分を殺すことができる」ということを意識せざるを得ない(少なくとも私はよく最悪の想像をする)。走って逃げても相手の方が早い可能性は十分にあるし、相手の方が腕のリーチも長く、一度首を絞められればその手を振りほどくことは難しいだろう。そういう想像が成り立つ状態で、「写真を撮らせてくれ」と頼むことは、はっきり言って「圧力」だ。重ねて言うが、成人男性側にその気がなかったとしても、未成年女性が恐怖を感じるならば、それは圧力なのである。

断ったらどうなってしまうのか? だったら無言で写真を撮らせたほうが、自分に危害が及ぶ可能性は低いのではないか。恐怖は思考を支配する。

では未成年が恐怖を感じなければ大丈夫なのか……というとそんな訳がない。撮られた写真がどうなるのかを考える想像力は、ある程度大人にならなければ持ち得ないものである。恐怖を感じることもできないような年少者が、自分の姿が収められた写真がどのように扱われるのか理解せずに了承してしまう事態は十分にあり得る。

幼い子どもの写真が性的な文脈に置かれることは、間違いなく被写体を深く傷つけるものだ。

前述したように、写真展では写真の焼き増しを注文できるようになっていた(それも一枚100円で)。販売に関して被写体の合意が得られてないのに、である。

30年前のものとはいえ、不特定多数に対して、少女を写した写真を、確認を取らずに勝手に販売する行為は不適切だと言わざるを得ない。誰がどのような目的で写真を買っていくのか分からないからだ。

自らの視線が誰かを傷つけうるということ

対象と信用関係のない成人男性が、未成年の女性に取った「写真を撮る」という同意が、どれほどの意味をなすか、甚だ疑問だ。撮られることにどれだけのリスクがあるか未成年では理解できない場合もあるだろうし、恐怖も警戒も嫌悪もしていながら、その場で断ることができない、ということもあるだろう。

大人と子どもは必ずしも平等な関係に立てるわけではない。子供の判断能力をどこまであてにしてよいのか、子どもは多くの場合大人に従わざるを得ないことを加味しなくてはならないだろう。だからこそ大人である「保護者」という存在には重要な役割が担わされているわけだ。

「ガジェット通信」の記事ではインタビュアーが最後に、

「写真に写っている少女たちも、成長し、母親になり、子供を育てている人も多いだろう。あの日、撮影したカメラマンに心を許し、笑顔を見せた子も、今では自分の娘に『知らない人に声を掛けられたら逃げるように』と言いきかせているかもしれない。(中略)多分、時代が変わるというのはそういうことなのだ」

と書いている。これは時代が変わったのではなく、当時写真を撮られた子供が大人になり、その危険性に気が付いた、ということなのではないだろうか? 我々は人が人を傷つける可能性について、丁寧に考えていかなければならないだろう。

1 2

「炎上中の「声かけ写真展」 成人が未成年の<合意>を対等に扱うことのリスク」のページです。などの最新ニュースは現代を思案するWezzy(ウェジー)で。