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男は妻を「母」にし侮辱するが、真の「母」を侮辱することはできない/二村ヒトシ×林永子『日本人とセックスの解体』

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自己完結の恋愛ばかりしてきた

二村 文章がすごい難しいというか、硬いんですけど、わざと硬く書かれたんですか。

 面倒臭い感じで申し訳ないです。

二村 イギリスに一年間行かれていて先日帰国した哲学者の國分功一郎さん、僕の『すべてはモテるためである』の巻末対談にもゲストで出ていただいているかたなんですが、ご著書に『暇と退屈の倫理学』という非常に素晴らしい、彼の哲学を平易にわかりやすく書いてくれた本があります。結局なんで僕らがセックスやら恋愛やらをしてしまうかっていうと、人間が暇であり退屈しているからだと『暇と退屈の倫理学』を読んで思ったんですけど、ではなぜ人は退屈してしまうのか、その人間が人生において感じてしまう退屈って、じつは単に「やることがない」ということではなくて、すべての人が心に負った傷に関係ある根深い問題なのではないか、というようなことを考えていく凄い本です。まぁ詳しくは読んでいただきたいんですが、その國分さんいわく「わかりやすく書いて多くの人に読まれることって哲学者にとって大事なんだけど、わかりやすすぎるのはいいことではない」、つまり読む人と書く人の格闘にならない、あまりにも考えずにスラスラ読めてしまうことは問題であると。永子さんの『女の解体』くらい硬く、日本語も難しく書いて下さると、読むほうは食いついていかざるを得ない。読んでいて疲れるんだけど、読み応えがありますよね。しかもこの本の一番最後にね、お父さんのことが書かれているじゃない? そこにたどりつくと、ほっとする。読み切った感もあって。非常に厳しい本なんですけど、面白かったです。女とは何か、男とは何か、っていうことを考えていらっしゃるかたは皆さん読まれるべき本だと思いました。

 ありがとうございます。そして、二村さんと湯山玲子さんが共著で出されました新刊『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』(幻冬舎)、これは5月12日に発売されたばかりで。

二村 まぁ幻冬舎ということで、あざといタイトルですね(笑)。さすがに日本から完全にセックスが消滅するのは、まだもうちょっと時間がかかるだろうとは思うんですが。

 私も本の中で、セックスに対して、家族の愛情、家族愛と性愛が日本においては分断されているのではないか、ということを書いていた、その自分の観点も含めて拝読させていただいて。

二村 おそらく林さんはこの本で、湯山さんと共感されるところが……。

 多いですね。この本の中で湯山さんもおっしゃってますけど、例えば性愛とか恋愛とかの高揚感みたいなものは、音楽を聴くこととかおいしいお食事を頂くことで感受する部分と近しいものがあって、でも一方で、二村さんは「それは受け取るだけの信号」だという。セックスってもっと交換なんだっていうことをすごくおっしゃってて。その部分もすごく面白くて。ともすれば私も、独りよがりというか、恋愛とかでも、相手と何かを交換していく作業というよりも、自分の頭の中で補完しちゃって自己満足することがとても多いので。ちゃんとやっぱり、人と交換していく作業を、愛おしいものとして、自分自身も受容していかないと駄目だな、っていうのを、反省として思ったんです。

二村 あの、僕は突然こうやって、和やかに真面目に話してるかと思うと、突然セクハラめいたことを喋り出す癖があるんですけど。

 どうぞご自由に。

二村 今の話を聞いてて思ったんですが、相手を……男性が、女性を人間だと思ってないから勃起できる。男性全員がそうじゃないだろうけど、すくなくとも日本的な結婚や恋愛のシステムっていうのはそうだろうって話にね、つながるんじゃないかと。男は女を侮辱することによって興奮するし、女も支配されることによって発情しているのではないかというのが『日本人はもう〜』の仮説というか大きなテーマなわけですが、つまり女性である永子さんが、もしかしたら男性を侮辱して恋やセックスをなさってたんじゃないか? と。
『女の解体』は、永子さんとお父さんとの関係、永子さんの中にある男性性、それが非常に面白いんですね。さっきも言ったけど、難しい社会分析や永子さんの思考の過程をずっと読んできて、最後に突然ちょっとウェットな、父親の話が出てくるところが、すごくグッとくる。
でも永子さんが恋愛では自己完結していて、相手との交換をしてこなかったというのって、要するに永子さんが、お相手をやっぱり人間だと思ってなくて、ただのチンポだと思ってる、っていうことなんじゃないですか?

(笑)

二村 それは、すごく恋愛とか性の局面で自分の弱みになってしまうことだと思う。これはもちろん一種のメタファーとして喋ってるんで、「アンタはチンポが好きなだけだろう!」ってことじゃないですよ。つまり永子さんは恋愛という相手ありきの局面で、大好きなお父さんから授けられた自分の中の男根みたいな部分しか見てない、じゃあ相手はどこにいるの、っていうことになっちゃいますよね、っていう話。

 そうなんですよ。「いつでも毅然としてなさい」っていうのがうちの父親の教えなんですけど、それを守って強くあろうと生きてきたんですね。完全に男根主義というか、マッチョなんですよ、私自体が。もちろんそればっかりじゃない自分の中の女性性みたいなものもあって、そのバランスを一応とってきた。自分的にはちょうどいいバランスだけど、他人によってそれを崩されたくないっていうんで、そこに執着し過ぎてた、っていう反省があるんですよ、今。それを私は「鎧」って呼んでるんですけど、自分に鎧を着せて「林永子」として喋らせたり、檄文を書かせたりとか、してきた。父の娘である強い林永子を無意識に演じることによって、本来の自分との距離が生まれてることに、『女の解体』を書きながら気づいちゃった。

二村 恋愛とかセックスのときに、格好つけてるっていうこと?

 自分の中の男性性みたいなもので、他人である男性をジャッジしちゃったところがあるってことです。

二村 うわぁ、それはもう本当に、男にしてみたらたまらん。どうやったって、あなたの心の中のあなたのお父さんには勝てないわけでしょ。

 そうなんです。だから極端な話、私、30代途中から42歳の今まで、ちゃんと誰とも付き合ってないんですけど。いらなくなっちゃうんですよね。もう、自分の中で男女バランスが整っちゃってるんで。でも、それはあんまりだ、っていうことに最近気がついたんです。

二村 で、なおかつ、それも『女の解体』に書いてらっしゃって感動的なところなんですけど、ネタバレになっちゃうかな。お父さん、亡くなられたんですよね。もちろん、近親相姦的なウェットな愛ではないけれど、お父さんから男根的な精神を注入された、立派な心のチンポを子供の頃から育ててきたゆえに、他の男たちへのジャッジがすこぶる厳しくなってしまっていると。

 なんかそうなんですよ。しかもね親しい男友達には私、「俺たちの中で一番チンコでかいのは永子だ」って言われますからね。この場合の「チンコでかい」はすなわち「男らしい」という意味で。

二村 それはお父さんから授けられたもので、お父さんのチンコは現実にはなく、しかも亡くなられてしまって、いまやチンコは永子さんの心の中にしかない。ほかの生きている男がそれに勝てるわけがない、どんな巨根でも勝てない。

 自分でもちょっとファザコンの度が過ぎるなと思って。ちょっとこれは、自分でも良くないんじゃないか、さっき言ったみたいに誰かと交換していくっていう作業をどんどんしていかないとまずいなと、ようやく42にになって思い至った次第です。

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