圧倒的な暴力性に触れたとき、人は「感染」することしかできないのか 『ディストラクション・ベイビーズ』

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被害者の暴力は、快楽によるものなのか

まず、泰良の存在は何なのか。彼は、さきほども書いた通り、「楽しければええけん」という気持ちで暴力を重ねていきます。見たところでは、彼は自分より弱いものには暴力を振るっていないようでした。その基準は明確には描かれていないのですが、こと、けんかに逃げ腰だった裕也と、那奈をはじめとした女性のことは殴らないのです。そして、あんなに残虐に人を襲い続けているのに、徐々に彼の暴力には何か一本筋が通っているようにも見えてくる、そんな不思議な魅力があるのは確かです。

私が魅力を感じてしまったように、彼のただ楽しむために振るっている暴力が周囲にも「感染」していきます。一番わかりやすく感染したのは裕也でした。それは、中高生の若者が、かっこいいミュージシャンや芸人に憧れたりするようでもありました。その結果、最初は同級生が殴られているのを見ても、助けられないし、暴力はいけないと声に出していた裕也が、ついには暴力の魔力に取りつかれていくのです。彼が暴力性を覚醒し、人々を殴るシーンは、映画の中でも一番、観客をドン引きさせるものだったのではないでしょうか。正直、怖くて胸糞悪かったけれど、暴力とは何かと考えさせる役をいつもきっちり演じきる菅田将暉という俳優はすごいと思います。

感染はひとりにとどまりません。那奈もまた暴力に感染した人として描かれているように見えました。彼女は、裕也たちに巻き込まれて車で行動を共にすることになりますが、同時に暴力の被害も受けています。通常、弱いものが暴力を受けて、それに対して正当防衛として報復する場合、そのときの暴力は「正義」になるはずですが、この映画ではそうはさせてくれません。暴力をふるったあとに、泰良と彼女が淡いシンパシーを感じるシーンが描かれているために、那奈の暴力もまた、裕也の暴力と同じで、泰良の存在によってうちに秘めている暴力性(や狡猾さ)が覚醒したかのように見えたのです。

私が最も疑問に感じたのは、この部分でした。彼女の場合の暴力性は、決して「楽しければええけん」の影響を受けたものではありません。むしろ、「楽しければええけん」に感染した無軌道な暴力の被害者であるし、そこは映画でも描かれています。だから、その被害者である那奈が暴力を振るう側になったとき、それは「楽しければええけん」から生まれた暴力ではなく、「『楽しければええけん』という気持ちから生まれた暴力の被害者になるってなんだよ」という憤りになるはずです。本来ならば裕也の暴力とは正反対になるはずであるのに、那奈が暴力の被害者ではなく暴力に感染した仲間であるかのように描かれていることには、消化不良な状態のままです。

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