内なる暴力性は誰もが持っているのか?
この映画のラストでは、松山市の三津浜で行われている祭りのシーンが描かれています。この祭りのシーンについては、シネマズ by 松竹の『柳楽優弥と菅田将暉が世界を挑発「ディストラクション・ベイビーズ」、地元出身者が豆知識を紹介!』という記事の中で、ライターのヒナタカ氏が、「けんか神輿が始まった理由には、農民と漁師の揉めごとが絶えなかったため、一年に一度だけ神輿をぶつけ合って豊穣を願う儀式をつくった、という説があります。いわばけんか神輿は、暴力を“社会的に許されているもの”に変換したものなのです」と指摘しています。
かつての社会で、そういう措置が祭りに求められていたのは理解できます。無秩序に暴力があふれる社会をどうにかしようとして、暴力を抑え込むよりも、社会的に認めて、祭りのときに発散すればいいということなのでしょう。そうでないと、いびつな社会になってしまうと危惧する人がいることもわかります。
ところが、この祭りと、泰良のシーンを並べても、映画では何も語られません。語らないことで、私がこれだけ考えることになっているのだから、やはり映画として意味があるのかもしれません。そして、最後まで見て感じた、この映画をつらぬく考え方というのは「暴力を抑え込もうとしても撤廃できるものではない。それどころか、泰良のような人物に出会ったら、それまでは抑え込んでいた暴力性が、爆発して露わになってしまうことだってある」ということなんだと思います。
しかし、反論をするならば、菅田将暉が以前『共喰い』で演じたように、男性であっても、己の中に内在する(かもしれない)暴力性がいつ爆発してしまうのかという恐怖を抱えて悩んでいる人だっているし、それは暴力性に触れたからと言って爆発しないことだってあるのではないかと思うのです。また、己の中に暴力性があるからこそ、それとどう向き合うのか真剣に考えている人だっているでしょう。
そして、私自身のことを考えても、那奈のように、自分が死ぬかもしれない状況になって、必死で力を振り絞る可能性はあるけれど、それは己の中に存在している暴力性が露わになってしまったのではなく、生きるための防御だと思うのです。それは、男女関係なく起こり得ることです。
確かに、昨今の風潮としては、「暴力はよくない、暴力を振るうのはやめましょう」という紋切り型の言説のほうが強く、それだけではなんら解決しないという気持ちが世間に芽生えることがあることも理解できます。正しいことの良い部分だけを見て、実際にあるネガティブなことに目を向けないことに対してアレルギーを示す人だっているのもわかります。でも、この連載でも何度も書いていますが、私は、内なる暴力性というものは、誰の中にもあるものなのだろうか? それは単なる思い込みなのでは? という疑問を常に持っているのです。
もちろん、この映画で、己の中に暴力性を持っている人の存在から目を背けないであぶり出し、その恐怖を描いたことには意味があったと思います。でも、世の中にはさまざまな人がいます。この映画にも、ひとりでもいいから、『共喰い』の主人公のように、己の内なる暴力性に対して、恐れを抱いたり、抗ったりする人がいてもよかったと思うのです(村上虹郎演じる泰良の弟である翔太にその芽があったとは思うのですが)。