作家、翻訳家の松田青子による新刊『ロマンティックあげない』は、著者ならではの日々のあれこれを記したエッセイ集。
松田は昨年、文芸誌、ファッション誌、週刊誌等で執筆した、本、映画のレビューやコラムを中心にまとめた『読めよ、さらば憂いなし』(河出書房新社)を出している。『エル・ジャポン』のフェミニズム特集に寄せたテキスト「フェミニズムで、遊べ」も再録されているそちらを読んだ時に、こんなにたくさん、小説以外の文章もこつこつと書いてきた作家だったのかと思ったが(読むと、気になる本、映画が増えまくります)、本作は、デジタル雑誌『yomyom pocket』で2013年夏から、月2回掲載で2年にわたり続けられた連載をまとめたものだ。
計49本のエッセイは、日常の興味をテーマに書かれている。といっても、誰に会った、どこに行った、何を食べたというような淡々とした日常雑記ではない。締め切りに追われ、仕事場である自宅に引きこもることも多そうなのに、人はこれだけ、外界のいろんな物事に反応できるんだと、ちょっと感動してしまうような本なのだ。人の精神の活発な動きに触れるのは、こんな風に気分がアがるものなのか。
この本の中で、松田は物事を味わいまくり、感動しまくっている。本書の帯にある〈日常に溢れる「小さな違和感」をプチプチ退治する爽快エッセイ〉という言葉を受けて言えば、松田は「違和感」さえも味わっているようだ。「違和感」の中には、日常の中のイライラした出来事についてのものも含まれないわけではないが、本を通して読んで印象に残ってくるのは、日常の中に、お仕着せのものでない、味わえるもの、楽しめるものを(「違和感」をも含め)探り、掴む心=言葉の動きだ。楽しみは自前でつくるという感覚、自分で自分を楽しくするやり方がここにはある。それは自由を感じさせる遊びだ。
例えばある時、松田は、使っているシャンプー「ティモテ」が、「Timotei」と綴るのだと気づく。これでは「ティモテイ」ではないか? その「違和感」から生み出された「ティモ帝」というキャラクター 。「ティモ帝」についてのささやかだが壮大なお話が読めるのは本書だけ!(たぶん)(「おかえりティモテ」)
また別のある時、刊行した著作についての取材を、自宅のある街で連続して受けることになった松田。取材者が松田のポートレートを撮るために、周囲でロケハンして見つけてきた場所が、同じ建物の壁の前であったことが続く。「この壁はいい壁です」と言われて松田は、「この世には、いい壁と悪い壁があるのだ。新しい視点を与えてもらったとうれしく思」う。(「いい壁」)
街で、思春期の子どもが、その時期特有の「不器用さ」が溢れ出したような、外見や振る舞いをしているところに出くわす。その様から醸し出される「思春期パワー」に松田は心動かされずにはいられない。「思春期が発動している子を見ると思わず、感激してしまう。あの内に籠った謎のパワー」。そんな時期がずっとは続かないと知っている大人として、「いろいろ大変かもしれないが、端から見ていて、あんなに意味不明で、面白い時期があるだろうか」と思う。(「だって彼女は思春期だから」)
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