恋も仕事も出産も、なにも放棄しない炎上女王がいた。わがまま上等アナキスト、伊藤野枝の格闘録

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 野枝はすがるような思いで平塚らいてうに書簡を送る。「たすけてください」。その分厚い書簡に認められた才気煥発な文章がらいてうの目にとまり、『青鞜』入りを果たす。以降、自伝小説にて、自分を結婚制度の型に無理矢理押し込んだ親類、嫁ぎ先に言われたことを有り体に暴露。その他、自分を侮辱した者、理不尽な行為を強いた者、ひいては習俗を、筆の力一本でこてんぱんにやっつける。

 後、野枝が編集・発行人に就任した第二期『青鞜』では、『貞操論争』『堕胎論争』『廃娼論争』が巻き起こる。喧々諤々の議論が渦巻く編集部に、野枝は辻との間に生まれた赤子を連れていき、仲間たちがあやしている隙に原稿を書く。赤子がおしっこを漏らすと、ちょいちょい拭くだけですぐ仕事に戻る。ウンコは庭に放る。やりたい放題だ。

 辻が浮気をし、野枝も大杉栄と恋仲になって、辻激怒&DV。彼らの生活は終わった。大杉と暮らし始めた野枝は、次第にアナキスト仲間たちと集団生活を送るようになる。その際も、大杉との間に生まれた5人の子どもたちの面倒を、みんなで見ることがあったようだ。野枝にとって子育ては「みんなでするもの」。貧乏暮らしもみんなで力を合わせれば「なんとかなる」。野枝の乳の出が悪ければ、大杉がどこからともなく山羊を連れて来て乳をしぼる。家賃が払えなければ、払わずに居直る。

 米も買えない、芋しか食べられないじり貧の時代、野枝は妹に『マツタケをください』とおねだりしている。よりによってマツタケ、突然高級品すぎるだろうとか、その前にもっと調達しなければならないメイン食材があるだろうとか、そんな外野の意見など知ったことではない。野枝は「マツタケが食べたい」のだ。純粋なる食欲を前に、貧富の差など存在し得ない。食べたいものは食べたい。買えない、だからもらう。それが野枝の選ぶシンプルな解決である。

 この「生きる力のたくましさ」たるや。ゆすり、たかりのようなさもしい真似をしてまで、金やマツタケをせびりたくない当方に言わせれば、図々しいことこのうえない。金がないなら、自力で稼げ。贅沢品はがまんしろ。しかしそれは、人間の尊厳を足蹴にし、経済の傀儡として隷従労働を強いる資本主義の犬の言い分というものだ。もっとも、度重なる出版差し止めや世間に蔓延する悪評、醜聞、大杉以下仲間たちの身柄拘束等、稼ぎたくとも稼げない事情が山積みだとして。金のために信念は曲げない。断固として隷従しない。我々は力を合わせ、何はなくともどっこい生きていく。

 もとより、伊藤家家訓は『貧乏に徹し、わがままに生きろ』。やりたいことを最優先し、我のあるがままに生きる。それが野枝の信条であり、「貧乏」「結婚」「道徳」等、たかだか記号に支配されない(そもそも支配される必要のない)自由を獲得するために必要な態度であった。

 そんな野枝のたくましさに、ある種の清々しさを覚える。それはおそらく、野枝の言う「習俗打破」には諸手を挙げて賛成するものの、あっけらかんと「お金ちょうだい」「マツタケ送って」とは言えない己の見栄が、己自身を厳しく律し、抑圧しているからだろう。何に対して見栄を張っているかといえば、「習俗」である。私なら我慢するところを、全然我慢しない野枝に、羨望の感さえ抱く。もちろん、これからは真似してせびってみようとは思わないが、己が「習俗」を毛嫌いするのはただの憎悪、ネガティブ依存であって、到底「打破」の境地には至っていないという事実に気づかされ、はっとする。欲しいものがあるなら、習俗を気にせず、もらっちゃう。それが「打破」である。

自由恋愛の精神

 ここで改めて野枝と大杉の恋愛関係を整理してみたい。

 今からちょうど100年前の1916年。かねてより野枝の言論に惚れ、本人にも惚れてしまった大杉栄は、日比谷公園での初デートで野枝とキスをする。当時、野枝は辻と暮らし、次男を出産したばかりだった。大杉には妻(堀保子)と愛人(神近市子)がおり、野枝が参戦することによって四角関係に突入。しかもいわゆるダブル不倫とあり、前代未聞の破廉恥スキャンダルとしてお茶の間を騒がせることとなる。

 この四角関係に対し、大杉は「俺は自由恋愛の実験をしている」と説明する。自由恋愛とは、婚姻関係における一夫一妻制も、一対一のパートナーシップも解体し、真に自由な恋愛をしようとする試みである。その条件は以下。

(1)お互いに経済上独立すること

(2)同棲しないで別居の生活を送ること

(3)お互いの自由(性的すらも)を尊重すること

 (1)は、男女の関係性における金銭の授受が、支配・被支配の構造を生み、人間を人間に隷属させるシステムを増長させるわけだから、何人たりとも上下階級のない平等性を重んじ、これを禁止。と、考えられるわけだが、単純に金がない男の言い逃れとも捉えることもできる。もっとも大杉は、金ごときには媚びない社会主義者である。自分の主義主張を恋愛面でも展開する際、経済的な依存を解消しようとすることは、あながち外れた理論ではないと考えられる。

 次に(2)だが、当方、大賛成。生活を背負うと、恋愛感情は退色するものである。大杉自身は、おそらく真なる自由を獲得するために、2人の砦を持たない「無所属」の清潔感を欲したと推測する。人間は誰にも従属しない。個々が自由であるべきなのだ。が、もっと軽薄に、いくらでも女を連れ込める方向性のフリーダムを夢見たとも考えられる。(3)の条件も含めると、結局、大杉は本能の赴くままにいろいろな女と恋愛し、セックスもし放題、なおかつ、責任も所属も放棄すると言いたいのではないか。何なのだ、その都合の良いパラダイスは。いやいや、すべては自由のため。個を個として野に放て。

 この大杉の意見に、プライドが高いからこそものわかりのいい女を演じがち(推測)な神近市子は賛同する。野枝も一応首肯するが、内心『どん引きする』。習俗のルールを破壊せんとする大杉が提案していることは、結局、大杉にとって都合の良いルールの改訂に過ぎない。『ひとがひとを好きになる気持ちがだいなしだ』。野枝は、ムカついた。しかし、恋愛の吸引力は理屈を凌駕する。もとより、『わたしはけっして頭をさげない』と断言する女と、『なんだってあやまるものか!』と公言する男の恋愛である。気が合うに決まっている。野枝は大杉との関係性に困惑しながらも、辻と別れ、大杉との恋愛に没入する。

 当の大杉といえば、同居していた妻、保子ととりあえず別居するものの、身の回りの世話を保子に任せる。収入がないので、市子に金を借りる。って、おい、あんた、経済上自立する男女関係を推進していたんじゃなかったのかよ! 大杉の自由恋愛は、彼が女性に求めるものがある分だけ、当の女性の自尊心を傷つける。結果、ぶち切れた市子が葉山の日陰茶屋にて、大杉の喉を刃物で突き刺す。かの有名な葉山日陰茶屋事件である。

 本件もマスコミは大喜び。痴情のもつれの傷害沙汰を面白おかしく報道する延長線上で、大杉の説く社会主義の意義や、野枝の提唱する女性の開放言論も下手に茶化される。これに同朋である社会主義者や元『青鞜』の仲間たちは、これまで大切に築き上げて来た活動を台無しにされたと大激怒。世に「悪魔」と叩かれた2人は、翌年、長女を授かる。その名は「魔子」である。

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