恋も仕事も出産も、なにも放棄しない炎上女王がいた。わがまま上等アナキスト、伊藤野枝の格闘録

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女性の奴隷根性

 野枝は、彼女の男女観、問題意識について、以下の文章を認めた。

『道徳も法律も宗教も何んにもない混沌たる蒙昧野蛮の時代から男は主人で、女は奴隷でした。男は所有者で女は財産でした。そして今日の文明でも、女はその従属的な屈辱的な位置から救い出すことはできませんでした。女は今もやはり蒙昧時代からのように、その体を提供して男からの生活の保証を得るよりほかに生きる道はないのです』

『私はあらゆる人間社会の人為的差別が撤廃され、人間のもつあらゆる奴隷根性が根こそぎにされなければならないという理想をもっています。そしてその理想から、あらゆる婦人たちの心から、それ自らを縛めているこの貞操という奴隷根性を引きぬかねばならぬと主張するものです』

 檄文である。女性は男性の所有物ではない。私的財産でもない。娼婦を「賎業婦」と呼ぶ中流階級の婦人は、自分もまた男性の性的奴隷、経済的商品であることを自覚しろ。当の女性の意識改革なくして、女性の開放はあり得ない。

 彼女は、大杉に隷従しない。甲斐甲斐しく世話を焼いたり、金品を渡して気を引いたりと、何かしらの労を担保に相手の愛情を引き出そうとする損得勘定を持たない。尊敬する活動家であり、大好きな男性である大杉と、ただただ暮らす。セックスをして、子どもを産む。育児も、家事も、仕事も、「やりたいからやる」。仲間たちが困っている時は掛け値なしに助ける。男性や人々との愛情活動の中に、「己を犠牲にする」という着眼点がない。つまり「己を犠牲にして男性に隷従する」、それが女性の奴隷根性であり、「何も犠牲にしない生き方」を、己の身をもって提示しているのである。

誰がための人生

 自分に嘘をつかず、やりたいことをやりきる野枝の生き様は、痛快である。特に、自分のやりたいことではなく、社会や他者に「やらされていること」に疲弊している人々には、一服の清涼剤として機能する感がある。そう簡単にやりたい放題できない事情を抱えている方々の中には、事情および事情を自分に押し付けて来る他者や制度への恨み、つらみのうちに野枝の自由を取り込み、「好き放題生きているこいつ、腹立つ」と怒り出す人もいるかもしれない。

 しかし、本書は、良くも悪くも野枝のあけっぴろげな魅力を、彼女がいかにチャーミングであったかを、軽妙な筆致で語っているため、多くの人々が爽快感とともに野枝に好意をもち、ファンになるのではないかと推測する。折しも、言いたいことを言おうものなら炎上し、タレントや著名人による「世間を騒がせたことへの謝罪」が相次ぐ現代。世間の反応を恐れるあまりに、素直な己をひた隠し、他者の顔色を伺い、当たり障りのない対応をもって「見え方」を整える者が社会を跋扈する。体面を取り繕った「見え方」のペルソナに同調しない者は、見つけ次第叩く。そんな衆人環視の閉塞時代だからこそ、野枝の切実かつ情熱的な体当たりは、小気味のよい清々しさを醸し出す。

 習俗にとって好ましい「見え方」に準じて己を整えようとする者の中には、その適応状態が心地よいと感じる人がいる。他方、真の己の「在り方」と「見え方」が反撥し、怒りやストレスを覚える人もいる。後者の摩擦は、社会活動のために己を犠牲にしていることにより発生する。これを打破した結果、野枝は世論にむち打たれ、虐殺された。よって、「女たちよ、野枝を真似て奔放に生きよ」と言うつもりは毛頭ない。無論、真似してはいけない反面教師と捉える必要もない。野枝はいつだって、自分で決めた「己の正解」を行動している。それは彼女の正解であって、誰もに該当する方法論ではない。野枝に学べることをはただ一つ。読者ひとりひとりが、それぞれの「己の正解」を見いだすことである。

 本書を通じて野枝を知ることにより、読者は、己を知る。「人の反応、期待、強要されるタスクはさておき。自分は、本当は、何がしたいのか。どのような自分でいたいのか」。今一度、自分に問い、答えを実行するきかっけとして有効利用することが、当方の薦める本書の読み方である。誰のための人生か。他の誰でもない己のための正解を、野枝とともに模索してみてはいかがだろうか。

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