皆さん、バレエはお好きですか? バレエといえばフワフワのチュチュを履いた美女と、王子様のような美男が人間離れした動きで踊るところを想像する人もいるかもしれません。チケットが高いので舞台で見る人はあまりいないかもしれませんが、なんとなくキラキラしたイメージがあると思います。実際にライヴで見てみると、演出にもよりますが男女ともに凄い筋肉で意外にエネルギッシュだったりもしつつ、それでもロマンチックな夢の世界ではあります。今日はチャイコフスキーの『白鳥の湖』にどういうわけだか森鷗外をからめつつ、バレエについてちょっとした小咄をしようと思います。
バレエの功罪
バレエは、性差別的なところが鼻につくと言われることがあります。愛に殉じる可憐な女性の話が多く、とても異性愛中心的です。女性キャラクターは男性の勝手な理想や欲望を体現するような存在で、清らかで純粋な美女か、ちょっと頭の良い場合は悪巧みに熱心なファム・ファタル(悪女)ばかり。多様性が無く、既存のジェンダーロールを強化するようなステレオタイプにはまっているとしばしば指摘されています。バレエはもともと女性が足を出して踊るかなり色っぽいダンスなので、純情美女でもセクシー悪女でも、男性客に媚びるようなお色気アピールが組み込まれやすいとは言えるでしょう。
しかしながら、古くさくて性差別的だとそっぽを向いてしまうのは早計です。物語はともかくダンスを見ているだけで美しい演目はたくさんあります。ヒロインも皆が単純なわけではなく、プロコフィエフの『ロミオとジュリエット』に出てくるジュリエットなどは意志の強い女性として演出されることも多いです。革新的な試みもあり、古典の再解釈が得意な振付家、マシュー・ボーンの舞台はとてもオススメです。ボーンは1995年に白鳥を全員男性が踊る『白鳥の湖』でステレオタイプな白鳥像をひっくり返してセンセーションを巻き起こし、その後も『シンデレラ』や『眠れる森の美女』など、古くさいお姫様ものと思われるような演目をあっと驚く新演出で上演しています。今年の夏にはビゼーの『カルメン』を翻案した『ザ・カーマン』の映像が映画館で上映されるそうですので、興味がある方は見てみてください。
オデットはヴァージンか?
私が初めて舞台で『白鳥の湖』を見たのはこのマシュー・ボーン版でした。全くの初心者でほとんど話がわからなかったにもかかわらず、チャイコフスキーのドラマチックなサウンドにのせて荒々しい野生の白鳥(男性)が王子と激しい愛憎劇を繰り広げる演出に衝撃を受けました。とりあえずもう少し勉強しようと思い、もとの古典的な演出を見てみることにしました。ただ、正直全然期待はしていませんでした。
というのも、この作品に登場する女性は、王子の助けを待っているか弱い乙女オデットとセクシーでワルいオディールで、バレエのステレオタイプを象徴するような作品だと聞いていたからです。男性中心的な社会において女性のキャラクターはしばしば天使や聖母のような清純な処女と、色っぽい娼婦というふたつに分けられてしまうと言われます。妻、母としてふさわしい貞淑で従順な女性を聖母として称揚し、一方でそこから外れる女性に娼婦としてネガティヴな烙印を押す上に、性的にそそる対象として描くのがこの二分法です。
こうした描き方は非常に単純化されており、はっきり言って見ていて大変につまらないものです。女性はこんな単純に分けられるものではありません。ダンス研究者のクリスティ・アデアが「多くの人にとって、処女らしいオデットと娼婦らしいオディールがバレエのエッセンスだ」(Christy Adair, Women and Dance: Sylphs and Sirens, Macmillan, 1992, p. 105, 拙訳)と述べているように、『白鳥の湖』はこのステレオタイプまっしぐらな作品だと考えられています。しかもオデットとオディールは普通、同じバレリーナが踊るのですから、実質的には1人の女性に聖母と娼婦両方やって頂こうというえらく男性に都合の良い作品に見えます。
そういうネガティヴな先入観付きで古典版『白鳥の湖』を見たわけですが、最初に見た時、私の頭の中でちょっとした疑問が生じました。演出の問題かな? と思いましたが、二度目に別の演出で見た時もその疑問は解決しませんでした。それは、「本当にオデットはヴァージンか?」ということです。
『白鳥の湖』では、悪魔ロットバルトが若い女性オデットに呪いをかけて白鳥に変えてしまいます。人間の姿に戻るためには、今まで誰のことも愛したことの無い男性に愛を誓ってもらう必要があります。そろそろ結婚しなければいけなくなって悩んでいる王子ジークフリートは湖のほとりで見かけたオデットに恋し、舞踏会に呼んで愛を誓おうとします。しかしロットバルトは娘である魔女オディール(黒鳥)にオデットのフリをさせ、ジークフリートを誘惑させ、その邪魔をします。ジークフリートはすっかり騙されてオディールに愛を誓ってしまい、オデットは大ショック。騙されたと気付いたジークフリートはロットバルトと闘いますが、結局呪いは解けずにオデットと心中します。
私がこれを見てすぐに思い出したのは森鷗外の『雁』(1911-13)です。『雁』は、父を養うために仕方なく高利貸である末造の妾となった若き美女、お玉の物語です。お玉が籠に入れて飼っていた紅雀がヘビに襲われているのを、家のそばを散歩で通っていた大学生の岡田が救出します。このため、お玉は岡田に淡い恋心を抱くようになります。しかし岡田は急に海外に行くことになってしまいました。岡田とお玉が最後に会うのは、語り手の「僕」が、下宿先の食事で苦手なサバの味噌煮が出たために、岡田を散歩に誘った日のことで、お玉は「僕」がいたために、岡田に思いを伝えることが出来ませんでした。この散歩の途中で一行がうっかり雁を殺してしまうところがあるのですが、ひょんなことから生きる機会を奪われてしまった雁が、ちょっとしたことで恋を失ったお玉に重ねられています。
オデットの運命はお玉の運命と似てはいないでしょうか? ふたりとも儚い野鳥に擬せられている美しい女性です。形は違いますが、オデットもお玉も力のある男性に自由を奪われ、「籠の鳥」になっており、恋した若者に救ってもらおうとします。ところが恋した相手は全然女心の機微に気付かないらしいボンクラな若者で、トラブルのせいで救出が適いません(私は初めて『白鳥の湖』を見た際、ヴァージンなのはオデットじゃなくジークフリートのほうに違いないと思いましたが、性関係以前にジークフリートはそもそも人間関係のことを知らなすぎると思います)。
私がフェミニスト批評をずっとやってきたからなのか、あるいは『雁』を読んだことのある日本の読者だからなのか、最初にマシュー・ボーン版を見て影響されていたからなのかはわかりませんが、オデットがロットバルトに呪いをかけられてとらえられているというのは、私にはお玉のようにいやいやながら妾にされていることの暗喩のように思えてなりませんでした。オデットはロットバルトの性暴力にさらされている被害者で大変な苦労人であり、せっかく好きになった恋人と逃げようとしている、というふうに解釈したほうが、ずっとこの演目は現代につながるところがある意義深い作品として演出できるのではないかな? と思いました。
また、オディールが悪女だというのも私にはサッパリわかりませんでした。オディールは父の言うことを聞いてジークフリートの前で可愛くしているだけで、別に手当たり次第に男性を誘惑して傷つけているとか、オデットに何か理不尽な恨みがあるとか、そういうわけではありません。むしろ、私にはとても従順で、あまり何も考えていない親孝行な娘に見えます。どちらかというとオデット同様、ロットバルトという強大な父の権力に押さえつけられている被害者なのかもしれません。このオディールが悪女に見えるのは「セクシーで男性を誘惑するような女性は皆悪い娼婦だ」という男性中心的な考えに私たちが毒されているからなのではないでしょうか。娼婦なのは悪いことではありませんし、オディールは親の言うことを聞いて感じよくしているだけです。オデットとオディールを同じダンサーが踊るというのは、2人ともロットバルトの犠牲者だから、というふうにも演出できるでしょう。
おそらく古典的なバレエ批評ではこんな読み替えはしてはいけないのでしょうし、私の解釈がおかしいのでしょうが、バレエは音楽とダンスだけで台詞のない、とても抽象的な芸術です。言葉のない物語を想像で補っていくといろいろな可能性が出てきますし、男性中心主義的な先入観を捨てて考えることで見えてくるものもあります。私のトンチキな初心者解釈と、マシュー・ボーンのような演出家による革新的な再解釈には大きな開きがありますが、実はいずれもこうしたバレエのいろいろな解釈を許す曖昧さによるものなのかもしれません。
マシュー・ボーン以外にも『白鳥の湖』の再解釈はあり、たとえばオーストラリア・バレエ団が2002年に初演したグレアム・マーフィー振付のバージョンはオデットを英国のダイアナ妃、ジークフリートをチャールズ王子、ロットバルトを女性にしてカミラ夫人にたとえたプロダクションです。『白鳥の湖』は、一見古くさい悲恋ものに見えますが、驚くほど観客や演出家の想像力をそそるポテンシャルを持っていると思います。これからももっとフェミニスト的、現代的な再解釈を施した演出が出てくる可能性があると思うので、諦めずにこの作品についていきたいと思っています。いつかは私が考えたような『雁』ふうの演出をもっとずっと素敵なやり方で実現してくれる演出家も出てくるかもしれませんし、既に世界のどこかでそういう演出が行われているかもしれません。