クソ無責任ヒーローだけどチャーミング、『デッドプール』の絶妙なバランス

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現在劇場公開中の『デッドプール』も一見、「正しさアレルギー」の空気に合った作品のように思っていました。というのも、この映画の宣伝では「クソ無責任ヒーローですけど、何か?」という言葉が選ばれ、「こんなヒーローを待っていた! お行儀のいい正義の味方はもう古い!?」と、このヒーローが「正しさ」とは正反対の立場の人だと伝えていたからです。私もその宣伝に惹かれて(というか、クソ無責任ヒーローがどういう描かれ方をしてるんだろうと思って)見に行きたくなったのも事実です。

この物語の主人公は、かつて特殊部隊の傭兵だったウェイド・ウィルソン(ライアン・レイノルズ)です。特殊部隊を引退した後、悪いやつを懲らしめながら気ままに生きていた彼ですが、娼婦のヴァネッサ(モリーナ・バッカリン)と出会い、結婚を決意した途端、ガンに犯されていることを知ります。絶望の最中、突如現れた謎の男に「末期ガンが治せる」と囁かれたウェイドは、ヴァネッサのもとを静かに離れ、謎の組織を訪ねることにします。組織の正体は、人体実験によって特殊な能力を得た実験体を世界に売り飛ばすという闇の組織でした。ウェイドはエイジャックスという男に度重なる拷問に等しい実験を課されます。その結果、ウェイドは銃で撃たれようと、手が切断されようと回復する特殊な肉体を手に入れましたが、副作用で全身の皮膚がただれてしまいました。ウェイドは、自ら「デットプール(死の賭け)」と名乗り、ただれた皮膚を治すためにエイジャックスを探し求めるのでした。

ウェイドのどこがクソ男?

デッドプールは、エイジャックスを探すためなら、彼のことを知る人や彼の側にいる人は容赦なく殺していきます。よくいるヒーローとは違い、彼は誰かのための「正しさ」がもとではなく、個人的な感情が行動原理になっています。でも、それが観客に受け入れられるのは、何か彼なりの基準や道理があるからでしょう。

例えば、デッドプールが暴力をふるう相手の多くは男性ですが、初めて女性に暴力をふるうシーンで、「ここで殴るのが正義か、殴らないのが正義か」と、ユーモア交じりで観客に問いかけます。

これは、タランティーノの『ヘイトフル・エイト』で描かれたことにもつながるものでしょう。女性であれ男性であれ、同じ条件下にいるとき、女性だから/男性だからでその対応を変えるのが是か非か。それは暴力を行使する場面でも同じなのかということです。状況によって、判断は難しいことですが、そんな問いかけもある映画です。解説してる自分がダサい感じがしますが。

ほかにも、国際女性デーのセックスシーンなど(これはもう説明するのも野暮なので見てください)、高度な笑いと問いかけがちりばめられているこの映画。でも、これらの問いかけやジョークは、女性を揶揄するというよりは、女性をめぐる状態に対して観客と共有するくらいの気持ちで見れました。「こういう今の風潮、息苦しくてやだよねー」というよりは、「これくらいのラインわかってやってるんですよ」という感じでしょうか。

というのも、『デッドプール』にはミソジニーがなくて愛情深さを感じるのです。例えば、ウェイドの行きつけのバーで抗争が始まりそうなとき、ウェイドはブロウジョブという甘ったるいカクテルを頼み、それを女性に渡して危険から回避させてあげます。また、バーで娼婦のヴァネッサと出会ったシーンでも、単純に彼女にお金を払ってすぐさまベッドに入るのかと思いきや、ヴァネッサのことをもっと知るために、一緒にゲームをして普通のデートのような時間を過ごします。このシーンを見たら「ウェイドのどこがクソ男だよ!」と思わずにいられません。

彼が血清の副作用で皮膚がただれてしまった後、同居人として盲目の人を希望したのも、自分の見た目で同居人を恐れさせてはいけないという優しさだと思うし、同居人となった黒人のぶっとんだ老婦人との間にも、絶妙な距離感と愛情のある関係性ができあがっていました。しかも、ちゃんと愛情があり、支配/被支配関係ではない(本当はこっちのほうが大切)の中での毒舌(毒蝮三太夫的なコミュニケーション)というのも、アリなところではアリなのだなということにも気づかせてくれました。

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