日本史の教科書には出てこない、超上昇志向を持つ女・阿野廉子の執念と実現力

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日本史の中の女性と聞いて、どんな女性像を思い浮かべるだろうか。

十二単をまとって和歌を詠みあう平安の女房たちや、日本髪を結い上げて大奥で三つ指をつく着飾った側室たちだろうか。もしくは、北条政子や日野富子など、政治の表舞台で活躍した将軍の妻たちを思い出すかもしれない。

南北朝時代前後に、阿野廉子という女性がいた。あののれんし、あるいはかどこと読む。この名前に聞き覚えのある人は多くないだろう。彼女はさきほど挙げた「女性像」に、立場も行いもさらさら当てはまらない。彼女の、ある意味非常にタフな生き方から私が感じるのは「執念と実現力」だ。

本題に入る前に、廉子が生きた当時の社会について簡単に説明したい。

南北朝時代は、列島における史上最大の内乱期である。鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が新たに作った政権が「南朝」「北朝」に分裂し、争っていた時代だ。この頃の列島は、貨幣経済の浸透や相続制の切り替わりなど、経済・社会の大転換期を迎えていた。南朝と北朝の争いは、そうした社会の変化に伴って生まれた内部の軋轢やひずみを大いに孕んだまま進行し、各勢力が裏切りや方向転換を繰り返した結果、どんどん長引いて行ったのである。

そんな中世の激動期を、阿野廉子は生きていた。

正妻・西園寺禧子と側室・阿野廉子の対照的な関係

1318年、後醍醐天皇が天皇に即位する。

後醍醐天皇は、一言で言い表しがたい稀有な人生を送った人物だ。

当時の天皇家は大きく分けて「大覚寺統」「持明院統」という2つの系列に分派していた。後醍醐天皇は、大覚寺統・後宇多天皇の第二子だ。当時、皇室が分派していたことや周囲の期待が後醍醐天皇でなく、兄の後二条天皇に注がれていたこともあり、彼は本来「即位の機会が来ない」皇族だった。しかし兄の病死など多くの偶然が重なり、後醍醐天皇は31歳という(当時にしては)高齢で「一代限りの王」として天皇になってしまうのである。

今回紹介する阿野廉子は、こんな強運の持ち主である後醍醐天皇の側室だ。ただの側室ではない。彼女はもともと、後醍醐天皇の正妻・西園寺禧子の従者だったのだ。一方、正妻の禧子も、奇妙な運命の女性だった。なんと、後醍醐天皇は彼女を西園寺家からこっそり盗み出して勝手に結婚してしまったらしい。一目惚れとか駆け落ちといったロマンティックな理由からではない。天皇家の中で多大な影響力を持つ西園寺家と姻戚関係を結びたいという打算的な理由が背景にあったようだ。

正妻の禧子は皇女を二人産んだ。側室の廉子は三人の息子を立て続けに産んだ。信ぴょう性のある記述ではないが、南北朝時代の軍記物「太平記」には、後醍醐天皇は禧子とほとんど顔を合わせなかったという。従者の身から見初められ、後醍醐天皇の愛を一身に受けた廉子を、禧子はどう思っていたのだろう。

1331年、後醍醐天皇は鎌倉幕府への謀反をたくらんだとして隠岐へ流罪にされる。この時、禧子は幕府の命令で実家へ戻されたのだが、廉子は後醍醐天皇に付き添って流刑地である隠岐までついていく。首都・京都で何人もの召使を抱えて暮らしていた天皇の妻が、都から遠く離れたど田舎である隠岐に向かうことが、どんなに大変だっただろう。中世においては、流罪にされた先では、身の保証が消失し、結果的に流刑地で殺害される場合が多々ある。流刑にされた天皇の従者といえども、安全な暮らしが担保された状況ではなかっただろう。この行動力は、彼女の意思の強さを示すものかもしれない。

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