はじめまして。今回からmessyで連載を持つことになりました、ファイナンシャルプランナー・社会保険労務士の川部紀子と申します。ややこしい資格名が職業ですが、「ファイナンシャルおねえさん」と覚えていただければと思います。
生命保険会社と独立系FP・社労士のキャリアで、お金一筋20年を超えました。普段は講演・セミナー、執筆、テレビやラジオ出演、個人相談などの仕事をしており、特に初級者向けにお金の知識を発信することに気合いが入ります。お金大好きな人は勝手に勉強してうまくやっていきますから、そうでない人に生きるために必要なお金の知識をわかりやすく伝えていきたいというのが本音です。
今回は初回ということで、自己紹介も兼ねて私の経験を踏まえつつ「生きるためのお金」の必要性を書いていこうと思います。
「生きていることは例外」と思い込んでいた20代
私が22歳のとき、まだ50代だった父の胃がんが発覚し、その後3カ月で亡くなりました。あのときの悲しさといったら、今思い出しても瞬時に涙が溢れるほどです。でも、悲しみに浸っていられる時間も束の間、遺された者は生きていかなければなりません。田舎の母は身体障害者で父に頼りっきり。私は頼る兄弟もいない1人っ子でしたが、新卒で就職した会社を3カ月で辞めてしまうほどのダメ人間で、生命保険の営業職に転職したばかり。家は社宅だったので、父が亡くなったら母は出ていかなくてはなりません。とりあえず、母は公営の住宅に引っ越して、郵便局でパート勤務をし、私は引き続き札幌で1人暮らしをしながら生保会社で働きました。
その直後、今度は私自身に肝臓がんの疑いが発生し検査入院となります。幸いにもがんではなく、手術も治療も不要となりましたが、本気で自分の死を意識する恐怖の1カ月でした。その間、仕事をする気持ちになれず、責任感も無かったのでほぼ会社をサボっている状態。退院したときには、「あのまま会社を辞めていたらどうなっていたのだろう」と収入を失う不安を初めて感じることになります。
父の死、自身の入院のほかにも、友人3人と従妹の死など、私の20代はつらく悲しい出来事が多発しました。多感な年頃に、身近な人達が亡くなるし、自分も死を意識する検査入院となったためか、いつの間にか「死ぬことが標準で、生きていることが例外」と、発想が逆転していました。自分も周りの人も簡単にすぐ死ぬといつも思っていました。今思えば、かなりおかしな考え方をしていたと思います。
その後も事件が起こります。母の住む田舎に水害が発生し、川沿いの公営住宅に住む住人に避難勧告が出されたのです。肢の不自由な母は「お母さん、逃げられないし、もういいわ」と言い出します。私は「予想よりも早くもこの時がきた」と思い、田舎から母を呼び寄せて一緒に住むことを決めました。肢の不自由な母のために段差のないマンションを探すと、ほとんどが新築の分譲マンションでした。27歳にして住宅ローンを組んで母のためにマンションを購入したので、大きな借金の計画を考えて熱を出した記憶があります。
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