中世のベビーシッター・乳母は、母親であり、家臣であり、そして出来る女の憧れの職業だった

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Photo by U.S. Army from Flickr

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母親。

たった二文字でこんなに力強い単語が他にあるだろうか。すべての人間は女性の胎内から発生している以上、良かれ悪かれ、誰しも母の影響から逃れることは難しい。中世でもそれは同じで、やはり女親の影響というものは絶大だ。現代においても産みの親と育ての親が違うことは少なからずあるし、ベビーシッターのように、親以外の大人が子供を育てることもある。しかし、中世においては、産みの親以外の“母親”が(少なくとも上流階級においては)当たり前に存在した。

「乳母(うば、めのと)」。

乳母とは、母親代わりとなって子供に乳を与え、高貴な家の子(乳母から見ると「養君」と呼ばれる)を育てる女性のことだ。簡潔に言い表すと、乳母の仕事内容には、「授乳」「養育」、そして「後見」がある。単なる授乳係ではなく、実の母親に代わって乳を与え育て、成人してからも後ろ盾として支える存在が乳母なのだ。

乳母という字面から、やわらかくあたたかい「母性の体現者」を想起するかもしれない。それは一方では正解であり、一方では間違っていると言えよう。

今回は、乳母という存在を多角的に眺め、当時の女性の生き方としての「乳母」を、紐解いてみたいと思う。なお、今回触れている乳母は、著名な人物に深く関わった「記録に残っている」乳母だ。歴史に名前を記す機会を得なかった乳母たち、そしてここで紹介する以外にも様々な環境に置かれた乳母がいたことは、先に注記しておきたい。

養君のためなら、命を懸けても惜しくない

日本における乳母の研究は、女性史の中では進んでいるほうだと言えるのではないだろうか。男性社会である中世において、女性に関する史料の数は豊富とは言い難い。そんな中でも、歴史の表舞台に立った人々に寄り添っていた「乳母」にまつわる史料は比較的多い。それだけ乳母の存在が重視されていたということなのかもしれない。

乳母と養君は、1対1には留まらない「家族ぐるみ」、それも貴族や武家が持つ政治性も含まれた関係になっている。武家を見れば、乳母の実子は「乳母子」「乳兄弟」と呼ばれる養君のよい家臣になったし、天皇の乳母の家族はみな宮廷での出世が早かったようだ。

平安時代末期を生きた堀河天皇は、臨終の際、別れを告げに来た多くの客を退けて、わずかな近親者と乳母たちの家族に囲まれて死ぬことを選んでいる。このとき、乳母の一人が「どうか一緒に連れて行ってください」と言って泣いたというエピソードも残っているほどで、乳母一族と養君の絆には、「育児を外注したベビーシッター」以上の強さがあることをうかがい知れる。

時代が変わっても乳母と養君の関係の深さに変わりはない。

明智光秀の重臣・斎藤利三の娘であり、江戸幕府の三代目将軍・家光の乳母として名前が知られる福という女性がいる。彼女の家光への愛情の深さを示す話として、以下のエピソードが残っている。

家光は、2011年に放送された大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』で有名になったお江と、江戸幕府の二代目将軍である秀忠の子だ。お江は長男の家光より次男・忠長を可愛がっていたため、家臣たちの間には「もしや家光でなく忠長が将軍の地位を継ぐのかもしれない」という気配が漂っていたのだという。

危機感を覚えたのか、家光の乳母・福は、なんと駿府城にいる家康の所に「家光を嫡子と認めて欲しい」と直訴に出向いてしまう。先代の将軍と乳母という身分差がある中での直訴など、不遜以外の何物でもない。下手をすれば命の危険もある。そんな中、当時制限されていた長距離の移動を「伊勢参りに行く」という嘘をついてまで実行し、直訴した福は、その甲斐あって家康に家光を嫡子として認めさせるところまでこぎつけている。「目に入れても痛くない」とはよく言うが、福にとって家光は、命を懸けても惜しくなかったのだろう。それも他人の子供なのに、である。

兄弟がいる場合、母親は自分の味方になってくれるとは限らない。しかし、養君にとって乳母は自分一人の専用の乳母だ。そして乳母にとって養君もかけがえのない存在なのだろう。育ての母親が、産みの母親よりも強い絆で結ばれることもあるのではないだろうか。

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