1992年に暴力団対策法が施行され、その二か月後に公開されたことで注目を浴びた伊丹十三監督の『ミンボーの女』は、世間に「マル暴」という言葉を浸透させるきっかけとなりました。今回取り上げる『日本で一番悪い奴ら』も、こうした時代を中心に描かれています。
綾野剛演じる諸星要一は、柔道の腕を買われ大学卒業後、北海道警察に入ります。強い正義感の持ち主である諸星ですが、最初のうちは、机に向かって報告書を書いたり調書を写したりのうだつのあがらない日々を送っていました。しかし先輩刑事の村井(ピエール瀧)から「刑事は(検挙の)点数が全て。点数を稼ぐには裏社会に飛び込め」とアドバイスされてからは、街で営業マンのように自分の名刺をばらまき、捜査に協力するS(スパイ)を探し始めます。やがて、一人の街のチンピラからのタレこみによって、覚せい剤所持の犯人を強引に逮捕した諸星の元に、暴力団の幹部の黒岩(中村獅童)から会いたいという連絡がくるのでした。
「点数稼ぎ」のために男らしさをまとう
北海道警察に入りたての諸星は、逃走する犯人を追いかけている最中でも律儀にシートベルトをしてしまうほど真面目で純朴な青年でした。一方、「裏社会に飛び込め」と諸星にアドバイスをした村井は、暴力団と見まがうような人物。「点数」のためには、暴力団とも付き合うし、夜はクラブで女性をはべらせ、ビールもウィスキーも一気に飲み干します。そして「公共の安全を守りたい」と語る諸星に対して、「そんなものは人が生まれてくる限り無理」と現実を教えます。
良い意味でも悪い意味でもピュアな諸星は、生まれたての「あひるの赤ちゃん」が初めて見たものを親だと思ってついていくかのように、初めて飲みにつれていってくれた村井のやり方を信じ込み、彼を真似るようになります。そこには捜査手法だけでなく、男とは「呑む、打つ、買う」ものだといった考え方も入っていました(打つは出てきませんが、「点数」を上げることがそれに近いでしょう)。なぜなら、暴力団や街のチンピラに一目置かれるためには、「過剰な男らしさをまとう」というパフォーマンスは不可欠だからです。真面目な諸星は、その日から、「点数」を稼ぎ、男らしさのパフォーマンスにますます磨きをかけはじめます。
その後、村井は淫行で捕まって一線を退くことになります。村井の逮捕後、ススキノの街に出る諸星。その顔には不安が見え隠れしていたし、吸いなれないタバコにむせ返ってもいましたが、ススキノの住人たちから親しげに声をかけられるうちに、自信が見え始め(無理にまとっている感じもありますが)、歩き方もガニマタに変わっていきます。このシーンには期待をかけられると、それに応えてしまう諸星の人の良さと弱さが集約しているように見えました。
こうして、手荒いやり口でどんどん「点数」をあげていった諸星は、1993年に銃器対策課に配属されることになります。
計画の失敗とともに崩れゆくホモソーシャルの絆
諸星が銃器対策課に配属された頃、警察庁長官が襲撃されたこともあり、北海道警察は拳銃の検挙に力を入れ始めていました。しかし、拳銃は街を歩いていたら偶然に見つかるようなものではありません。諸星は暴力団から買い取った拳銃を押収する形で、自らの点数を稼ぐようになります。諸星に協力したのは、「諸星と一緒にいたらビッグになれる」と思ったハルシオン中毒でDJの山辺太郎(YOUNG DAIS)と、中古車販売をしているパキスタン人のアクラム・ラシード(植野行雄)、そして暴力団幹部の黒岩でした。
この4人には、家族にも近い絆が生まれ始めます(ちなみに黒岩と諸星は互いに兄弟と呼び合い、山辺は諸星を親父と呼んでいます)。特に港でカニを食べながら、笑ったりふざけたりというシーンは、多くのヤクザ映画に見られる、男同士の絆を育む定番のように見えました。なんでもない日常の出来事が、男同士の絆を深めさせるというアレです。この4人に、北海道警察の面々も加わり、検挙率を上げるという目的の元で奇妙な信頼関係が築き上がっていきます。山辺の結婚式では、次長や部長までもが集い、一種の「ファミリー」を形成するようになるのです。
この映画が画期的だったのは、ほかのホモソーシャルを描いたヤクザ映画とは違い、ホモソーシャルで築いた信頼関係は、本物ではないと描いたところでしょう。北海道警察を巻き込んだ壮大な点数稼ぎは失敗に終わり、諸星も第一線から退くことになると、あれだけ和気あいあいとしていた仲間の間に不協和音が響きはじめ、諸星の前から、ひとり、またひとりと人が去っていきます。そこに、ホモソーシャルのロマンチックな関係性などありませんでした。
もしも諸星にカリスマ性や支配者性などがあれば、周囲の仲間は死ぬまで諸星についていったでしょう。ところが、諸星はあまりにも普通の人間で、人を支配することはできませんでした。本来のこうした映画であれば、単純で無垢でちょっとおバカさんで、なんでもない楽しい時間を過ごした舎弟というのは、アニキのために身を投げ出し、かわいい笑顔を見せて、死んでいくものです(『インファナル・アフェア』でヤン<トニー・レオン>を信じて死んでいくキョン<チャップマン・トー>を思い出してください)。でも、この映画では、そんなホモソーシャルな関係のいいとこどりは許してはくれませんでした。結局、ホモソーシャルの信頼関係など、共通の目的、利害を前にしか成立しなかったのです。
空っぽな諸星と、日本社会の縮図
諸星が過激な違法捜査を行っていたのは、何かに駆り立てられたというよりも、自分の意思がなかったことに理由があるかもしれません。
諸星が警察に入ったのは、柔道部の顧問の一言がきっかけです。そのときも自ら望んで警察に入ることを選んだようには見えませんでした。そして警察に入ったあとも、最初はお茶くみや調書書きなどの与えられたデスク業務も手を抜かず、村井に「点数」のことを教えてもらってからは、点数をあげることが正義だと信じ込んで突っ走っていました。やがて諸星を「何も知らなくてかわいいと思った」というクラブのホステスとも関係を結び(それも村井に「抱け」といわれて抱いたことがきっかけでした)、銃器対策課に入ってからは、自分を「エース」と最初に認め、自分を「いい女」にしてくれるという期待から近寄ってきた同僚警官の女性と恋愛に至ります。諸星が動くのは、組織の要望と周囲の人の期待によってだけなのです。
村井から刑事として荒々しい振る舞い方=ステレオタイプな男らしさを継承した諸星ですが、かつては「公共の安全を守りたい」と理想に燃えていました。映画の終盤に登場する、「刑事になったのは市民の安全を守るため」と何の疑いもなく答えられる新人刑事の小坂に、かつての「何も知らなくてかわいかった」頃の諸星の姿がオーバーラップします。でも、小坂に村井や諸星の振る舞い方は継承されないどころか、諸星は小坂から手錠をかけられることによって刑事人生を絶つことになりました。
村井から受け継がれた古い男らしさが、小坂には受け継がれなかったのは、もはやその男らしさが現代の若者である小坂には響かなかったということもあるでしょうし、見た目ではピュアに見える小坂のほうが、諸星に比べて冷静で芯があったということもあるでしょう。
諸星は、自分がないからこそ、信じられる何かが欲しかったのでしょう。信じて頑張って初めて評価が与えられる。だからこそ、どんなに悲惨な状況になっても、銃器対策課でやってきた組織ぐるみの違法捜査は、正義のもとにあったと信じて疑わない。組織を信じなければ、自分の存在価値がなかったことになってしまうからです。最後の最後まで、警察組織に希望を持ち、自分が第一線に戻ればまた輝ける、エースになれると信じている諸星の顔を見ていると、恐ろしくも、悲しくも感じました
これはかつての終身雇用と年功序列の日本型経営の恩恵を受けてきた真面目な男性たちにとっても、男性を労働の功績で判断してきた女性たち(「エースは自分をいい女にしてくれる」と信じた同僚女性警官と同じです)にとっても、他人事ではありません。この映画は、警察内部のことを描きながら、これまでの日本社会全体を描いたものでもあるでしょう。最初と最後に象徴的に登場する日の丸がそれを物語っているように見えました。
(西森路代)